今回取材するのは大阪府松原市の名店「自己流ラーメン 綿麺」。私がラーメンブログを始めるほどラーメンに嵌まった頃に出会ったお店だが、当時から全粒粉配合の自家製麺によるつけ麺が人気商品でレアチャーシューも付いていた。今になって振り返ってみると、数年後に大阪で流行るモノが綿麺には当時から既にあったことに驚く。あまり情報が無い謎のお店なので聞いてみたいことが山ほどある。「自己流ラーメン 綿麺」綿田店主にKRK直撃インタビュー!
- 生まれ育ったのは?
店主「(大阪府)堺市の美原です。」
- 元々、ラーメンを食べるのも好きだったんですか?
女将「主人は以前はIT関係の会社員をしていて出張で福岡へよく行っていたんです。それで『今日は何食べたの?』と聞くと、返事はいつもラーメン、ラーメン、ラーメンというくらい好きだったんです。」
店主「出張でラーメンばかり食べていて、家で自作も始めたんです。自作と言ってもまぁまぁ本格的で、30センチの寸胴と業務用のコンロを買って、風呂場で豚骨を割ったり豚の頭を削いだりとかしていました。麺はできないから知り合いの製麺屋の社長にお願いしてもらっていました。それで友達10人くらい呼んで試食会とかしていました。」
- その時にはラーメン屋をしたいと思い始めていたんですか?
店主「当時はそこまでは思っていなかったです。単なる趣味でした。鶏ガラとかもしたけど、福岡で豚骨に感銘を受けたのでやっぱり豚骨ラーメンを自分で作りたいと思っていました。一蘭や山小屋、大龍、大砲とか好きでしたね。」
- 趣味を仕事にすることになったきっかけは?
店主「会社が吸収合併されるという話になって給料体制とかも変わると聞いたので、僕もどうしようと考えてその会社を辞めることに決めました。」
女将「ある時、主人が会社を辞めたいとなった時に『辞めて何をするの?』と聞くと、『俺は一蘭のようなラーメンを作りたい』と言ったんです。その時に主人が出張先でよく通っていたのが当時はまだ店舗展開していなかった一蘭。一蘭みたいなラーメンを作りたいと言っていたんです。」
店主「辞めようと決めた時、何かで独立したいと考えていました。パソコンの操作とかサポートとか自信があったのでそういうのをする会社を個人でするか、趣味で自作をしているラーメンを商売としてするかと考えて、ラーメンをしようと決断しました。試食をした友達も美味しいと言ってくれていたから僕も勘違いしてある程度美味しいものを作れると思っていました。それで退職してすぐに物件探しを始めました。」
女将「その時に主人は私に『お前には手伝ってもらうつもりはないから口出しをしないでくれ』と言ったんです。当時は20代で若かったから言い出したら何も聞かない人だったから、もう何も口出ししなかったんです。でも蓋を開けてみたら、オープン初日からずっと20年間手伝っているんですよ(笑)」
店主「子供もまだ小さかったから一緒にやるという気はなかったんです。友達に入ってもらってするつもりでした。でも手が足りなくて3人でという形でスタートしました。会社辞めたのが2003年10月で、2004年2月2日にお店をオープンしたんです。」
2009年3月 私の初訪問時の写真
- 松原市のこの場所を選んだ理由は?
女将「結婚する前から一緒に住んでいたのが松原市だったんです。当時はこの辺りで個人店のラーメン屋はピノキオってお店くらいしか無かったですね。」
店主「自転車で探してここを見つけたんです。中華料理屋の居抜きで、改装をして使える状態にしました。」
- 屋号「自己流ラーメン 綿麺」の由来は?
店主「色々と書き出したりして割と悩みましたけど、結局、自分の名前"綿田"に麺を付けて綿麺にしました。慣れるまでしばらくは違和感しかなかったですね。完全に修行していないのを売りにしたかったから自己流を付けました。」
- オープン時のラーメンは?
店主「自作で作っていたとんこつらーめんだけで始めました。一蘭みたいな赤黒、唐辛子の赤ラーメン、マー油が入った黒ラーメン。ダブルスープはまだ無くて、スープは豚骨のみ。創業当時は麺を細麺か中太麺かで選択可能でした。」
- オープンしてお客さんの反応はどうでしたか?
女将「もう酷かったですよ。自分たちが美味しいと思っていても、今振り返って昔の写真を見るとびっくりすることがあります。よく20年間もやって来れたなと思うほど酷いスタートでした。」
2004年の貴重なラーメン画像(お店提供)
- その大変な状況を乗り越えられたのは?
女将「オープンしてから2年間ほどはその日暮らしみたいな生活をしていたんです。ある時に主人が望麺会(関西望麺会)というラーメン屋さんや業者さん達が集まる会に参加したんです。その時に沖山さん(PAPUA氏)に駆け出しのラーメン屋さんをしていると伝えたら、麺哲の庄司さんの隣りの席にしてくださったんです。それが本当に運命の出会いだったんです。」
- 運命の出会いとは?
女将「2年間泣かず飛ばずでその日暮らしをしていた私たちが、庄司さんと出会ったことで本物のラーメンの世界を知ることができたんです。麺を始めたのもそうですし、『ココとココは食べにいくべきだよ』とかも教えてもらいました。その時にmixiのことを知り、ラーメンを沢山食べている人達とも出会えました。いろんな情報をもらって勉強をする場を与えてもらい、それからダブルスープというものに出会いました。」
店主「僕と庄司さんが望麺会でお会いした数日後に庄司さんがウチに食べに来てくれたんです。その時にウチのラーメンを全否定したんですよ。」
女将「『こんなものラーメンじゃない。今すぐやめた方がいい』とおっしゃっていました。」
店主「その後、麺哲の厨房にも入らせてもらったし、庄司さんがウチの厨房に入って教えてくれたこともありました。タレはこういう風に作った方がいいよとかアドバイスを頂いたし、庄司さんの車で食べ歩きも連れて行ってもらっていました。僕は師匠がいないんですけど、僕の恩人は庄司さんなんです。」
女将「命の恩人です。」
店主「庄司さんに出会って本物の自家製麺と本物のつけ麺に出会いました。最初は庄司さんの店の製麺機を使わせてもらい、麺を実際に打たしてもらって限定ラーメンとかも始めました。そうすると自分で作ってみたいとなり、庄司さんに本格的に麺の作り方を教わりました。そして製麺機が必要になった時に普通に買ったら高いからと、庄司さんにまりお流 福永さんを紹介していただいたんです。」
- まりお流さんから製麺機を?(驚)
店主「使っていない製麺機があるからと話をしてくださって、福永さんにお願いして破格の価格で譲っていただきました。それから自家製麺を始めました。」
- その頃にはお店も順調に?
女将「ラーメン仲間の皆さんがmixiで綿麺の事を盛り上げて下さったのでお客様も増えていきました。あの時の恩は一生忘れません。」
- 僕が初めて来たのが2009年。当時はまだまだ珍しかったつけ麺、レアチャーシュー、そして全粒粉配合の自家製麺など興味をそそられるワードが多かったのに驚きました。
女将「今でこそ当たり前のモノの出始めの頃に上手く乗っかれたんです。レアチャーシューは麺哲さんへ食べに行った時に初めて知って、作り方も庄司さんに教わりました。その後、虎一番さんがアドバイスを下さったこともあります。全粒粉は庄司さんに教えてもらったお店のつけそばに入っていて知ったんです。」
- 金曜夜の限定営業(限定商品のみ販売)も当時としては画期的なことでしたよね!
店主「当初は限定も通常営業の夜にしていたんですけど、麺が3種類とかになるので回らなくなるので、限定はその日の夜だったらその時は限定だけを出そうと決めたんです。それがフライデーナイトの始まりでした。毎週、違うメニューでしていて、レギュラー商品を少しアレンジしたのではなく、ウチでは麺から違う新作を毎週していました。限定というのを知ったのも庄司さんからなんです。麺哲ではお任せという形でしていて、注文するまで何が出てくるか分からない。そういうのがいいと教えてもらいました。」
女将「限定の時は鶏のスープが多かったですね。毎週初めての商品での営業なので、毎回開店初日の新店みたいにバタバタでした(笑)」
- 看板商品「和風とんこつ」が生まれた経緯は?
店主「庄司さんが『ラーメン屋は、麺哲といえばこの一杯、綿麺といえばこの一杯。そういうのが無かったらダメだよ!』と教えてくれました。それでうちでは何を看板にするか考えて、ダブルスープの"和風とんこつらーめん"が出来ました。」
女将「最初、とんこつらーめんとあっさりラーメンで始めました。そしてあっさりラーメンの名前を和風とんこつに変えて、とんこつらーめんを消したんです。綿麺の看板商品を和風とんこつにしました。」
- 当時まだ大阪へブームが来ていなかったつけ麺を始めたきっかけは?
店主「自家製麺を本格的にするようになってからつけ麺ができたんです。つけ麺も庄司さんに教えてもらったいろんな店で食べ歩いたんですよ。麺哲さん、カドヤ食堂さん、しゃかりきさん、弥七さん。ベースは豚骨があったんで、ダブルスープの豚骨魚介のつけ麺。今でこそ多いですがその当時はあまり無かったですからね。」
店主「最初は麺の上にチャーシューを乗せたら『食べにくい。お客さんのことを思っていない。邪道だ!』という意見とか頂いていました。でもレアチャーシューだからスープの中に入れられませんからね。それもずっと続けていたら、今では麺の上にチャーシューが乗るのは当たり前の時代になりました。」
- 綿麺さんのSNSで知ったんですが、お店のスタイルも変化していってるんですね。
店主「オープン当初は凄い緩い店だったんですよ。子供にジュースを出すとかしていたんです。でも段々と色んなお客さんを知って、こっちが擦れていくというか、嫌になってきたんです。良いお客さんとだけ商売したいというくらい心が擦れてしまったんです。一生懸命美味しいラーメンを作っているので真剣に食べて欲しいと思っていたので、貼紙などでお店のルールを出す形になっていったんです。」
- 2年前に気持ちの変化があったんですね?
女将「大阪城での大きなイベントに出させてもらって、せっかく沢山の方に綿麺の事を知ってもらう機会をいただいたのに、実際にお店へ来てもらったらお店のルールで雁字搦めだとおかしいと思いました。いろんな人に食べて欲しいと思うなら、いろんな人が来て堅苦しく感じない店の方がいいと思いました。最近はもう私たちが嫌だからと注意することは無くなって、他のお客さんに迷惑になることが発生した時だけ言うことにしています。」
- 綿麺さんのラーメンの現在は?
店主「基本、自分が美味しいと思うものを作り続けている感じです。今でも和風とんこつが美味しいと思っているからそこは変えません。」
女将「お出汁の種類が一つ増えたり、小麦粉も何回も変わっていますし、少しずつブラッシュアップはしています。」
- 最後にお二人が大事にしていることを教えてください。
店主「自分のセンスを信じることですね。自分が美味しいと思うもの、イメージしたものを作る。僕が美味しいと思っているものは、お客さんにも美味しいと思ってもらえると信じて作っています。」
女将「私はホントに自分の思うままにしているだけで、こうしよう、ああしようとは全然思っていないんです。私が大事にしていることって、自分が真面目に仕事をすることくらいなんです。」
◆店舗情報
自己流ラーメン 綿麺
大阪府松原市松ヶ丘3-6-15
https://www.instagram.com/watamenramen/
オープン日:2004年2月2日
(取材・文・写真 KRK 令和6年12月4日)