今回取材するのは宝塚市の「とんこつラーメン しぇからしか 仁川本店」。昔からのラーメンファンなら豚骨といえば「しぇからしか」の名前が頭に浮かぶ方がきっと多いだろう。関西ラーメンシーンを長く支えてきた創業1999年の名店だ。生まれも育ちも博多という松村代表に関西で本場の味を追求し続け、そして今に至るまでをいろいろ聞かせてもらえたらと思う。「とんこつラーメン しぇからしか」松村代表にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「博多です。」
- 昔からラーメンは好きだったんですか?
「叔母が西陣で屋台ラーメンをしていました。それで子供の頃はよくその屋台に行っていたのでなんとなくラーメンの作り方も知るようになりました。」
- 自分もいつかはラーメンをしたいという気持ちは?
「そういう気持ちは全然無かったですね。美容師になろうと思っていて、美容学校を出てから東京へ行き、7年ほど美容師として働いていました。」
- 美容師として独立を目指していたんですか?
「最初はそう思っていましたが、働き始めた頃から自分には向いていないと気付きました。でも途中で辞めるのは嫌だったのでちゃんとお客様に入れるようになって、最後に有名な所で働いてみようと思いました。それで当時とても有名だったOPERA(現AQUA)に入りました。でもやってみたら一緒だなと思って辞めることにしました。」
- 次にしたいことは?
「その当時、東京で博多ラーメンと書いている店に入ると酷かったんです。がっかりすることが多かったんですが、ある日『なんでんかんでん』に食べに行くと『ちゃんと博多ラーメンしてるやん!』と驚きました。僕が東京に行った頃はまだ全然有名でなくて普通に座れたんですが、それから瞬く間に凄い人気になって気軽に行けないくらい行列ができていましたね。」
- 自分でもラーメン屋をしたくなった?
「なんでんかんでんの人気を見ててラーメン屋をしようと思いました。でもお金があまり無かったのでラーメン屋開業の資金作りのためタクシーをしました。当時バブルがまだ終わっていない頃でとても忙しくて凄い稼げたんです。タクシーは3年ほどしていましたね。」
- その間、ラーメンの自作は?
「まだ全くしていなかったですね。タクシーの仕事の合間、東京の有名店をいろいろ食べ歩いていました。」
- 頭の中にあったラーメンは?
「叔母の屋台のラーメンが美味しい博多ラーメンの店だったかと考えたら決して美味しくはなかったんです。昔の薄い感じの博多ラーメンでした。でもこれを突き詰めていけば美味しくなるだろうとは頭の中でありました。意外と大当たりするんじゃないかなと思っていました。」
- 兵庫県に来たのは?
「最初は東京でやりたかったんですけど、ウチの父親が西宮市で定年して誰かが近くにいないといけないとなって、それでこっちでお店をやろうと決めました。」
- こっちに来てから自作を始めるんですね。
「もうラーメン屋をすることしか考えていなかったので寸胴を買って自作を始めました。叔母レベルのラーメンはすぐにできたんですが、これでは無理だろうと思いました。それから色々していましたが、結局寸胴が小さいのでデカイので炊くのと全然違うものが出来上がるんです。寸胴がデカイと骨の密度が全然変わってくるんですよね。家ではデカイ寸胴を使うのは無理なので、ある程度の線まで出来るようになったところで、物件を見つけてお店を始めました。」
◆1999年4月4日オープン
- 屋号の由来は?
「博多弁で何かつけようと色々考えました。博多弁というか九州で『うるさい』を『せからしい』とか言うんです。金八先生で武田鉄矢さんが先生(せんせい)を『しぇんせい』と言ってましたよね。東京の人は江戸っ子と一緒でさしすせそが言えなくて、しゃししゅしぇしょになる。それで『せからしか』を『しぇからしか』にしました。せからしか(うるさい)って言葉の意味が屋号としていいのかは別にして、言いやすいからこれでいこうと思いました。」
- 仁川を選んだのは?
「物件を色々探していて、ちょうどここを紹介してもらいました。人を雇う余裕がなかったので大きさもちょうどいいと思ったし、競馬場もありましたからね。でもやってみたら競馬行く人はお金を使わない。ラーメン買う金があったら競馬に使うんですよね(笑)。競馬の時は凄い人で周辺の自動販売機から飲み物が全て完売したりしてるんですが、ウチは全然お客さんがいないという状況でした。まだ博多ラーメンの認知度が無い時代でしたし、ウチは博多ラーメンの中でも臭いがかなり強い方だったのでなかなかココで食べようとは思わないですよね。」
- 当時、関西での博多ラーメンは?
「東京に比べて関西はもっと少なかったです。博多ラーメンに馴染みがあるわけでもないし、当時は皆さん替玉も知らなかったですね。」
- 開業して大きな寸胴を使い始めてからは?
「今は2日で作れるんですが、最初は寸胴3つで3日かけて作っていたんです。美味しかったはずなんですけど、これ以上すると死んでしまうだろうなと思うほどでした。当時、朝10時から夜中0時まで営業していて寝る時間も無いしちょっと無理だと思って、寸胴を2つに減らして2日間工程にしました。そこからいろんな工夫をしましたが、あんまり変に加えて博多ラーメンじゃないよとなるのは嫌なんですよね。」
- 目指していたのは?
「叔母のとこや『なんでんかんでん』を見て、ウチは作り切ろう。作り切ってそれを一旦冷やして、それを温め直して出そうと決めました。」
- 2015年に水輝(アクア)をオープンした時は驚きました。
「今流行っているラーメンもやれるんだぞという気持ちで始めました。しぇからしかもそうなんですが、アクアも砂糖を絶対に使わない。スープでしか甘味を出さないのがプライドなんです。しぇからしかも塩ダレを使っていますが、出来ることなら塩だけで食べられるほどスープのレベルを上げたいと思っています。」
- 店舗展開のきっかけは?
「もうスープが追いつかなくなったんです。この店の規模では作れない。当時はココで寝ていてタイマー20分かけて、20分おきにスープを混ぜるという生活。いよいよ体がもたないとなりました。最初はスープを作る場所をどこか探そうと不動産屋に相談しているうちに、それなら店舗として両方兼ねた方がいいんじゃないかとなって東灘店をすることになりました。当時、東灘店の奥に12台くらい60センチの寸胴を並べて作っていました。今でも8台くらい使っています。」
- 松村代表の大事にしていることは?
「博多ラーメンの本質を変えたくない。こうやれば売り上げが上がるとかインパクトが出るとか分かっているんですが、お客さんをがっかりさせたくない。昔からの博多ラーメンの筋から逸れたくない。突き詰めてはいきたいけど、本質からはズレたくない。博多に持って行っても美味しいと言われるという気持ちを持ってやりたい。ズレ出すと何のラーメンかもう分からなくなっていくんですよね。一番大事にしているのはそこです。」
◆店舗情報
とんこつラーメン しぇからしか 仁川本店
兵庫県宝塚市仁川北2-10-30
twitter:https://twitter.com/shekarasika44
オープン日:1999年04月04日
(取材・文・写真 KRK 令和3年8月17日)