今回取材するのは神戸市の名店「らーめん 会」。有名な観光スポットが集まるこの地域で、2010年から多くのラーメンファンを魅了してきた人気店だ。今年10月で創業11周年を迎える「らーめん 会」浦嶌店主にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「熊本県の天草です。天草には高校を卒業する18歳頃までいました。」
- 昔からラーメンは好きだったんですか?
「天草にはラーメン屋さんとかあまり無いんですよね。でも味千ラーメンという熊本のチェーン店があって、そこが月に一回半額デーというのをしていたんです。ウチは外食はあまりしなかったんですが、その半額デーだけ家族で食べに行っていました。あとは袋麺とか夜食で食べていた程度ですが、単純に麺類は好きでしたね。」
- 高校を卒業してから天草を離れたのは?
「デザインの専門学校で博多に行き、それから博多には9年間くらい住んでいました。当時は一蘭が凄く好きでしたね〜。夜のアルバイトをしていた時期があって朝方8時頃に帰るんですけど、その時間帯はどこも営業していないんですが、一蘭は24時間営業をしていたのでずっと利用させてもらっていました。」
- 博多での生活は?
「デザインの専門学校を卒業してからデザイン関係の事務所に入社しましたが、入ったら徹夜とか多いし安月給。仕事は好きだったけど、これだと生活していくにはキツイなと思って辞めました。」
- デザインの仕事から離れて?
「心機一転じゃないけど、飲食の方にと思って"ほか弁"でアルバイトをやっていました。その間にワーキングホリデーというのを知りました。よく調べてみると、当時27歳だった僕が年齢制限無しに無条件で行けるのがニュージーランド。僕はニュージーランドが大好きでラグビーとワイン、そして有名なヨットレースも開催される時期だったんです。それでワーキングホリデーでニュージーランドへ1年間行くことにしました。」
- 初めての海外はどうでしたか?
「熊本天草から博多へ出てからずっと方言が通じる所にいたんですが、いきなりの海外生活。ニュージーランドへ行ってちょっと旅をしたら凄く楽しかったですね。」
- ニュージーランドでの1年間の後は?
「ニュージーランドで初めて関西の人とあったんです。僕は九州から出たことがほぼ無かったので、初めて関西人の関西弁を生で聞いて『あっ、本当に関西弁を言うんやな』という感じでとても興味を持ったんです。その時に関西は全然知らなかったので行ってみたいなと思いました。それで帰国してから(関西で住む資金作りのために)期間従業員として名古屋のTOYOTAで半年だけ働いていました。そして半年後に関西に来ました。」
- 関西での仕事は?
「仕事も決めずに来て、こっちに来てから『何がいいかな?』と考えていました。ちょうどヨドバシカメラ梅田がグランドオープンの時期でいろんな飲食店の募集を出していました。せっかくだったら自分が好きなラーメンをしたいなと思ってヨドバシカメラ梅田内にオープンする某ラーメン屋に入ることにしました。」
- 初めてラーメン屋で働いてどうでしたか?
「入社したら東京で2ヶ月くらい研修があって、それからグランドオープンって流れでした。ラーメン屋の仕事は仕込みが長くて重労働で驚きました。その店はテナントだから日付を越える事はなかったんですが朝も早かったですね。でも仕事自体は楽しかったです。忙しいし厨房が暑くて何度も脱水症みたいな感じで倒れましたけど、楽しかったです。その会社では2年ほどお世話になって店長も勤めさせてもらっていましたが、いろいろ納得いかない問題もありまして退職させてもらいました。」
- 次の仕事は?
「その頃にはもう自分はラーメン一本かなと思っていたので、次は入ったのが『ららぽーと甲子園』にオープンする某チェーン店でした。そこでも店長をさせてもらうようになり、売り上げもとても良かったです。忙しかったですが仕事は楽しかったですね。しかしクォリティの面とかで自分とは合わないと感じるようになっていました。そして会社からお店は社員に任せて、各店にアドバイスをするスーパーバイザーをして欲しいと話がありました。その時にやっぱり思っていたのと違うなと思って退職させてもらいました。」
- 自分でしようとは考えていなかったんですか?
「その頃はまだ全く考えていなかったですね。幾つかのチェーン店での経験を通して、大きな会社の店は僕には合っていないと分かってきました。それで個人でしているラーメン店で働いてみたいと考え始めました。当時、(大阪市)東淀川区によく行くことがあって、そこでラーメンを食べるなら『天神旗さん』か『輝さん(麺や輝)』かみたいな感じでした。その中で求人が先に出たのが輝だったんです。あの大将(森店主)の淡々とした雰囲気や、ラーメン屋らしくない活気の無い感じが面白いなと思っていました。それで入らせてもらいました。当時、拓郎さんが一番弟子として先に入っていましたね。」
- 輝に入った時には独立志望はありましたか?
「面接の時に『3年したら独立してもらう制度にする』と大将から聞いていて、『あ〜そうなんだ。3年したら辞めないといけないんだな』と思っていました。僕の性格上、レールが決められている方が動きやすいというのがあって、3年したら独立するのもいいかなと考え始めました。」
- 個人店での仕事はどうでしたか?
「輝では全く不満もなく、多くのことを学ばせてもらいました。僕の名前が浦嶌なので浦島太郎だから『太郎』ってニックネームになって、店長を務めさせてもらうことになった支店は『麺や輝 太郎店(現・淡路店)』になりました。」
- 3年経った頃には?
「拓郎さんが独立して、それからかつやさん(現・つけ麺 井手 店主)、けいたさん(現・自家製麺つきよみ 店主)が入って順調に育ってきていましたので、もう独立を決めていました。2008年に結婚もしていましたし、2010年1月いっぱいで輝を卒業させていただきました。」
- 卒業してから自店オープンへの流れは?
「個人で始めたら長期の休みはもう取れないなと思って、物件を探す前に嫁とニュージーランドへ40日間ほど行きましたね。もっと長くいたかったんですが(笑)」
- 帰国後、自店オープンへは順調に?
「僕は同時進行が苦手で、一回辞めてから気持ちをリセットして次を探すって性格なんです。最初は大阪で物件を探していてなかなか見つからず、西宮や三宮とかも探し始めました。不動産屋さんの紹介でこの物件を紹介してもらったんですが、希望していたより気持ちちょっと小さかったんです。輝で11席くらいでやっていたんですが、ココは9席だけだったんですね。でも隣で年配の方がお好み焼き屋をしていたので、大家さんに『隣の方が引退する時にそこも借りたいです』とお願いして、それでここですることに決めました。その後、2019年に隣が空いたので2つを繋げる拡張工事をしてリニューアルしました。」
- 当時、神戸についてはどんな印象でしたか?
「土地勘が全く無かったので物件を見にきた時に初めて神戸駅に来ました。当時、神戸には個人店も少なくてあまりラーメン屋が無い地域でしたね。」
◆2010年10月2日オープン
- 屋号「らーめん 会」の由来は?
「輝を卒業して嫁とニュージーランドへ行った時の話になるんですが、バスで旅していて週末でお金を引き出そうと思ったら田舎なので17時を過ぎるとどこも引き出せない。2人とも現金派でカードも持っていなかったので手持ちが100円くらい。予約していた宿に電話してもカード無いと前払いしか駄目と言われて、比較的安全な国ですが嫁に野宿をさせるわけにはいかない。それで日本人が経営しているお店で両替してもらうしかないと探しまわりました。何軒か断られた後、ある喫茶店を見つけました。屋号がローマ字で『KISSA KAI』。『喫茶?日本人のお店かな?』と思ってお店へ入って必死で頼んだら両替してくれたんです。嫁は泣いていましたね。命の恩人です。それでオーナーさんと話していたら屋号の『KAI』というのは先住民のマオリ族の言葉でフード(食べ物)という意味。これはいい言葉だなと思って、これを自店の屋号に使わせてもらおうと思いました。
KAIを『会』という漢字にしたのは『一期一会』の会からです。そして『らーめん』を付けたのは大将(森店主)の反面です。麺や輝はオープン当初、うどん屋とよく間違えられていたようなので、ウチは分かりやすく『らーめん』を付けました。」
- 自店で提供する商品はいつ頃から決めていましたか?
「輝の味でそのままいくわけでなくて、ラーメン産業展で見た圧力鍋を使いたいと考えていました。産業展で見た時に『こういうのに未来があるな〜』と思っていて、輝とは全く違う作り方になるけどこれで勝負したいと決めていました。当時は関西で使っているお店は少なかったですね。
物件を契約して圧力を使い始めてから商品作りを始めました。輝は一寸胴に全部掘り込んでという作り方ですが、ウチは所謂トリプルスープな感じで一つずつ取って、最後にでかい寸胴に合わせてタッパーに移して保管するという形。つけ麺は意外とすんなりつけダレができたんですが、ラーメンが大変でした。もう圧力にしたのは失敗したなって後悔したほどラーメンにならなかったんです。びっくりするくらい難しくて、それから2ヶ月ほどかけて試作を続けてなんとかオープンに間に合わせた感じでしたね。オープンは2010年10月2日です。」
- オープンしてどうでしたか?
「オープン当初はそれなりにお客さんが多かったんですが一気に落ち込みましたね。最低は9人の日もありました。単純に味がよくなかったと思います。なんとかオープンに間に合わせたという感じでしたから。そしてつけ麺は全く出なかったですね。大阪ほどつけ麺の文化が無かったですから。」
- 集客が上向き出したきっかけは?
「オープン半年目くらいだったと思うんですが、名前を忘れたんですがある会社から半額クーポン券の営業が来てウチも参加したんです。そのクーポンの有効期限が半年間。うちはラーメンはそこそこ出るんですが、つけ麺をもっと知ってもらいたいと思ってつけ麺だけクーポン限定にしました。」
- クーポン効果でお客さんが増えてきたんですか?
「少しずつはクーポン持ったお客さんが来てくださっていましたが、当初はそれほど効果を感じていませんでした。それに半額クーポン自体は宣伝効果があるだけでウチはほぼ利益無いんですよね(笑)。でもクーポンの有効期限が終了する1週間前くらいからどっとお客さんが増えたんです。購入していた人達が期限が切れるからと押し寄せたんでしょうね。それでいつも並んでいなかったお店なのに大行列ができたんです。それを見た一般の人が『行列のラーメン屋さん?』と思ったんでしょうね。正確なところは分かりませんが、そこから確かに集客が上向きになったんです。9席なのに30人ほど並んでいて全く回転しない。何が起こっているのという感じでしたね。それがクーポンの期限終了まで1週間ほど続きました。それからお客さんが増えていき、店自体も波に乗ったという感じでしたね。」
- 最後に一言お願いします。
「自分は喋りがあまり得意じゃなくて接客も苦手。でも何かを作るというのは昔から大好きで、そこに自分が好きだったラーメンというのがあって、それを作って提供できるというのでラーメン屋でよかったなと思います。もちろん仕込みとか大変ですし、営業時間は短くても拘束時間は長い。でも他の仕事だったら続いていなかったと思います。ラーメン屋をしていて良かったなと思うし、これからもラーメン屋であり続けたいなと思っています。」