Vol.192:梅花亭


 私が初めて長浜市へ来たのが2009年11月。長い海外生活から戻ってきたばかりでまだ滋賀県にさえ2回ほどしか来たことが無かったので、当時の正直な印象は「こんな遠い所まで来て、まだ関西なんだ!」と驚いていたのを覚えている。関西の最北端「長浜市」まで来たのは気になるラーメン屋があったからだ。屋号は「梅花亭」。落ち着いた雰囲気でお洒落だし、商品説明や食材への拘りなど丁寧に記されているメニューにとても好感を持ったものだ。

 あれから約11年が経ち、特にここ最近は連続で梅花亭を訪れる機会があったので、その商品の質の高さに改めて感銘を受けて、そして取材をしてみたいと心を動かされた。店主とは全く面識が無いので、完全初対面って感じの取材になる。"梅花亭"菅井店主にKRK直撃インタビュー!


- 出身は?

「長浜です。北の方にある旧浅井町で、高校までそこにいました。」

 

- ラーメンとの出会いは?

「高校の時に国道沿いにあったラーメン屋『青龍』でアルバイトをしていて、高校卒業して埼玉県の大学に行ってからも休みの度に帰ってきてそのお店のお手伝いしていました。それが楽しかったし親方の生き方に憧れていたのもあったので、大学を2年でやめて弟子入りさせてもらいました。それが僕のラーメンキャリアの始まりですね。」

 

- 青龍で働き始めて?

「楽しかったのはラーメンというよりも接客業、そして親方の生き方に憧れていた部分が大きかったので、ラーメンというもの自体にはぼんやりとした感じでしたね。2年ほど経った時に、『これからラーメンというものだけで世の中に通用していくのか?』と不安になったんです。それで親方に『いろんなものを見たいので大阪へ行きたい』と相談して、大阪へ行くことにしました。」

 

- 大阪では何をしていたんですか?

「中華料理屋とラーメン屋で掛け持ちで働いていました。昼に中華料理屋で働いて、それから深夜までやっているラーメン屋で朝まで働いて、また次の日、朝10時から中華料理屋に入る。そういう生活を1年ほどしていました。」


- 1年ほど経って大阪を離れたんですか??

「地元(長浜市)のある会社がラーメン屋を立ち上げたいということで、親方を通して僕のことを知って『大阪から帰ってきて手伝ってくれ!』と話が来ました。それで21歳の頃にいきなりそのラーメン屋の店長になり、お店を持たせていただくことになりました。」

 

- お店を任されてどうでしたか?

「当時まだ21歳で全く何も分からなかったんですよね。(青龍の)親方に教えてもらっていたことをそこでしようと思ったんですけど、会社の方針と僕のやりたいことがぶつかってしまって、結局、2年ほどで離れることにしました。当時、僕はまだ若かったので自分の我だけ通してしまっていました。」


- それから何を?

「ゼロから何かやり直そうかなと考えていたら、たまたま地元の国道沿いで道の駅みたいな所を運営していた知り合いから『ウチの飲食ブースでラーメン屋をしないか?』と声をかけていただきました。それで大きい鍋とテポだけ買ってきて、そこで『梅花亭』として独立開業しました。」

 

- 屋号「梅花亭」の由来は?

「その道の駅みたいな所の一角に『梅花亭』という名の庭を作る計画があったようですが、結局作られることがなかったんです。それで折角なので『その名前を使わせてください!』と頼んで使わせてもらうことになりました。もう20年ほど前ですね。」

 

- 当時はどんなラーメンを提供していたんですか?

「青龍で教えてもらったそのまま作っていました。当時のラーメンって今のようなラーメンではなくて、麺は麺、調味料は調味料だけでそれぞれ仕入れ、業者さんが作ったカエシ、自分でスープだけ作ってそれらを混ぜて仕上げるみたいなラーメンでした。」

 

- 当時、店舗化は考えていましたか?

「そうですね。自分のビジョンとしてはゼロから自分で作ることに憧れていましたが、この地域ではそういうお店は当時まだ無かったんですよね。」


梅花亭(2005年オープン)


- 長浜市ですると決めていたんですか?

「埼玉の大学に行った理由は、当時は都会への憧れがすごくあったんです。ここは凄い田舎で何も無い。しかし戻ってきて分かったのは、自分が育ったところが凄くいい所で魅力があるということ。田舎には田舎の良さがある。今も若者はみんな都会にどんどん流出してしまっています。自分は都会から戻ってきて、長浜がもっともっと面白くなると気づいたんです。長浜を出たから気づく(長浜の)良さがあるんです。ラーメンも面白くなってきた頃だったので、自分は長浜で何か始めて、長浜でも面白く生きていけることを発信していけると思いました。だから2005年に開店した時のコンセプトが『滋賀長浜から発信するラーメンの新しい形』でした。」

 

- 私が初めて来たのが2009年。当時からメニューの説明がとても丁寧だったのをよく覚えています。

「元々僕の性分もあると思いますけど、何か発信するにあたって、自分なりにお客様に伝わる形を考えました。ラーメンの文化が無い地域だったので、お客様もラーメンについて分からない。国道沿いにあるロードサイド店が主流でしたから、そういうものじゃなくて"ラーメンに拘ったラーメン"というものを僕が売ろうとした時に『分かってもらうためにはどうしたらいいか?』を四苦八苦考えていましたね。」


◆メニュー(2020年10月15日時点)


- 青龍時代以外はほぼ自己流でここまで来たんですね。

「長浜に根付いてやろうと決めたら地元で仲間ができてきました。イタリアン、フレンチ、和食など他のジャンルの料理人と繋がりができて、多くのことを学ぶ機会がありました。僕はオープン当初から『ここにしかないものを作りたい』と考えていたんですけど、それが何なのか自分でも全く分かっていなかったんです。北海道には北海道のラーメン、尾道、燕三条、地域にそういう文化があったからこういうラーメンが流行った。

 長浜で多くの料理人の方達と知り合ってから、土地の魅力を伝えるためにもっといろんなやり方があると気づきました。食材にしてもこの土地にしか無いものがある。なぜこの土地でこのラーメンを作るのか。そういうことを考えていく内に、ここにしか無い食材、土地の風土を生かすもの、長浜でも季節によって食材が変わってくる。そういう考え方はラーメン業界にあまり無い。ラーメンを1つの料理として考えた時、その土地を選んでやるラーメンというものがあってもいいんじゃないかなって考え始めました。」

 

- 長浜でしかできないラーメンとは?

「土地に根差したラーメン。そういう考え方は僕にしかできない。それでいろいろ周りを見渡してみると、酒蔵さん、有機野菜を作っている農家さん、お米もこの地域は美味しい。もっとお米が主役になるような食べ方があっていいんじゃないかと思って羽釜で毎日ご飯を炊いたり、地元の豆腐屋さんの豆乳を使う。季節限定で鮎のラーメンもやり始めています。そこには僕らの想いと手間が凄くかかっていて、それをお客様に届けることが僕らの務め。チャーシュー1つとっても、ウチは低温調理をした後に炭で焼く。けっこう手間をかけて作っています。」

 

- メニューに「しっかり時間をかけて一杯一杯を作る」と記されていますね。

「量産するラーメンじゃなくて、僕は1つ1つ自分の手仕事に拘って作っています。作り手の想いが料理に出ます。丁寧に一杯一杯をお客様に届けることに拘っています。」



- お店の看板はずっと塩なんですね?

「開店当時から看板にしているのは和風鶏塩ラーメン。これを自分の軸として、これからも美味しい一杯の塩ラーメンを作るためにずっと変わり続けていくつもりでいます。今ここで満足する感じじゃないです。一杯の塩ラーメンを作るためにこれからもいろんなことを学んで、いろんなものから影響を受けてそこに投影していけたらと思います。」

 

- 菅井店主が大事にしていることは?

「一言で言うと、進化し続けること。これに尽きると思います。これで終わりじゃないし、まだまだ自分でも見えていない最高の一杯に行き着くまで、自分で進化を止めてはいけないなと思っています。」


◆店舗情報

・屋号:梅花亭

・住所:滋賀県長浜市大戌亥町1031-3

・公式note:https://note.com/baikatei

・twitter:https://twitter.com/baikateijpn

・instagram:https://www.instagram.com/baikatei321/

・オープン日:2005年

 (取材・文・写真 KRK 令和2年10月15日)