奈良から京奈和道を南下し、和歌山に入ってすぐの所に橋本市がある。今回取材するのは橋本市にある人気店「麺匠中うえ 橋本店」。大阪で数店舗展開していた中上店主が地元に戻ってきて自ら厨房に立ってラーメンを作っている。なんとなく流れは聞いているが、和歌山から大阪へ進出した理由、和歌山へ再び戻ってきた経緯、いろいろ興味あることがあるので今回、取材をする時間を作っていただいた。"麺匠中うえ"中上店主にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「和歌山県橋本市です。ここが地元です。」
- ラーメンを始めたきっかけは?
「高校卒業してすぐに和食の道に入って3年ほどしていました。将来的に独立して商売したいと考えていたんですが、和食で店を構えるのはかなり厳しいな~と思っていました。その頃に地元の『よなきやラーメン』という繁盛店で親戚が働いていて『人手が足りないから探している』と聞いていました。それでラーメンにも興味があったので、そこで働くことにしました。」
- 「よなきや」ではどんなラーメンを提供していたんですか?
「和歌山豚骨一本だけでなく、醤油・塩・味噌も出していました。当時の和歌山では珍しく、そういうのがお客様に受けていたと思います。」
- 「よなきや」では何年働いたんですか?
「よなきやで3年働いた後、24歳の頃に地元で独立開業しました。もう21年前の話ですね。」
- 独立したら橋本市でお店をすると決めていたんですか?
「そうですね。地元でしようと決めていました。その当時は『よなきや』が繁盛していて、そこで修業して独立したら間違いないだろうって考えていました。ここが橋本市隅田町って言うんですけど、この隅田町で一店舗目の『みかえりらぁめん』を始めました。」
- 屋号「みかえりらぁめん」の由来は?
「元々は僕のひいじいちゃんが橋本駅前で『みかえり旅館』というのをしていて、それでおばあちゃんに『商売したいから"みかえり"って屋号を使わせて!』とお願いしました。」
- 最初のお店ではどんなラーメンを提供していたんですか?
「基本、よなきやさんと同じような系統でしたね。ラーメンをメインでしているんですけど、炒飯や炒め物もあって中華料理屋さんみたいな感じのお店でした。居酒屋のように使っているお客様も多かったです。」
- お店は順調だったんですか?
「隅田で4年ほどしてから、橋本市の市脇って所に二号店を出しました。それから隅田のお店を自分の(よなきや時代の)弟弟子に譲って、市脇のお店もずっと和食をやっていた同級生に任せるようになりました。その頃には僕は『大阪に出て一回勝負したいな』と考えていました。」
- 大阪の理由は?
「大阪に行きたいって気持ちはずっとありました。地元での商売が順調にいっていたので、『大阪に行ったら人口が多いしもっと儲けれるだろう』と安易な考えがありました。」
- それから大阪に出店するんですね。
「居抜き物件を探していて、見つかったのが布施だったんです。布施の商店街の物件で、田舎の僕らからしたら人通りが多いし『絶対にうまくいくだろう』って思いました。」
- 大阪ではどうでしたか?
「ちょっとどっち付かずの商売が続きました。和歌山から大阪へわざわざ来てやるほどの儲けも無くて、3年ほど経った頃に『これだったら和歌山へ戻った方がいいかな~』と考え始めました。」
- その時に大阪へ残ったのは?
「当時、製麺の勉強をしていて大和ラーメン学校の大阪営業所(江坂)へ行っていたんです。その時の担当の人から『中上さんは商圏分析したことある?』と尋ねられました。何も考えずに大阪に来たのでそういうのは全くしていなかったので、一回、布施の商圏分析をしてもらったんです。すると当時の布施の年齢層は高くラーメン屋をするには向いてないと言われました。そして『江坂でやってみない?』と提案してもらいました。江坂の商圏分析をしてもらったら30代の人口が多くてラーメン屋をするのに向いているってことで、それで心機一転、武者麺という屋号で江坂でしてみようと決めました。」
三麺流 武者麺(2012年7月1日オープン)
- 屋号の由来は?
「僕は武道が好きでそこから武者ってワードが出てきて武者麺に決めました。」
- 武者麺で提供していた商品は?
「和歌山を売っていこうと思いました。和歌山の車庫前系、井出系、両方の清湯と白湯のラーメンですね。和歌山県産のブランド鶏『紀州うめどり』を使って、醤油も和歌山産の醤油です。」
- 江坂での反応は?
「オープン当初から周辺のサラリーマンの方たちが多く来ていただいて、自分でも『こんなにも来てくれるんだ!』って驚きました。そしてちょっと落ち着いた頃にラーメン雑誌『究極のラーメン』で醤油の準GPをいただいて、それでまたお客様が増えましたね。」
- 大阪でも店舗展開を当初から考えていたんですか?
「関西ラーメン向上委員会の集まりに参加するようになって多くのラーメン屋さんと知り合いました。皆さん勢いがあって店舗展開も積極的にしていて、それで自分も刺激を受けて『大阪で店舗展開していこう』と思いました。」
- それからセカンドブランド「麺匠中うえ」に繋がるんですね。
「セカンドブランドは自分が現場に入ってできるお店と思っていて、小さい店舗で探していました。」
- 当時の関西ではまだ珍しかった「昆布水つけ麺」を提供していたのを覚えています。
「東京でロックンさんとかがしているのを耳にしていて、自分は和食出身で出汁をとったりする知識があったので魚介系でそういったのを出したいなって思いました。」
- グツグツと煮立って登場する石鍋のつけ汁も驚かされました。
「自分の中でつけ麺が冷めているのが嫌で『何かないかな?』と考えていました。橋本市でやっていた時に石焼ビビンバの器を使って石焼ラーメンってのをしていたのを思い出して、つけ麺の器サイズのでしてみようかなって思いつきました。」
- 当時の人気店が集まった「絆グループ」が始まった経緯は?
「元々は布施で商売している時に近くのボクシングジムのお客さんがよく来てくださっていて、そのボクサー繋がりから田部さん(麺やマルショウ代表)がまだラーメンをする前に来てくれたんです。田部さんが『自分もラーメン屋をしたいと思っている。大変なん?』とか聞いていましたね。しばらくして田部さんが豊中で『麺やマルショウ』をやり始めて、それから烈火さん、あす流さん、たけ井さんと知り合っていって、『皆で何かグループを作ろう』ってことで作ったのが『絆グループ』です。」
◆絆グループ
- 和歌山にいつか戻ると考えていたんですか?
「はい。行くときに既に決めていました。和歌山で10年商売をさせてもらって、大阪でも10年と決めていました。ちょうど10年経ったので地元に戻ってきました。」
- 大阪ではやり切ったという気持ちですか?
「自分の思っていたこと、やりたいことは全部できたと思います。いろんなラーメン屋さんと知り合って刺激を受けてラーメンに対する考え方がガラっと変わりましたね。大阪で知り合った店主さん達からは『ラーメン一杯にこんなに原価かけているの?』と驚かされ、いろいろ学ぶことができました。」
麺匠 中うえ 橋本店(2019年7月1日オープン)
- 10年が経って地元に戻ってくる時の気持ちは?
「地元の人達は僕が大阪でやっていたのを知っているので、下手なものを出せないって気持ちでした。『大阪で何をしてたんや!』と思われたくないですからね。絶対にこっちでまた成功するという気持ちでした。」
- 再び地元ですると決めていたんですか?
「はい。地元ですると決めていました。嫁さんと二人で地元の人に美味しいと思ってもらえるお店をしたいと思っていました。お陰様でお客様がどんどん増えてきて嬉しい限りです。」
- 中上店主が大事にしていることは?
「自分が若い頃に独立すると決めた時から思っていた通りに進んでこれているので、最終は地元の人たちに喜んでもらえるラーメンを作っていきたいという気持ちがあります。大阪でいろいろ店舗展開をさせてもらっていろんな人を雇ってしてきましたが、最終は夫婦二人でお客様の満足度を大事にしたい。味以外でもです。
地元のお客様はつけ麺を食べたのもウチが初めてって方もいます。昆布水もそうですし、自家製麺というものも全然無い地域です。大阪でいろいろ学んできて引き出しが増えましたので、限定としていろいろ出していって地元のお客様に楽しんでもらえたらって思っています。」
<店舗情報>
麺匠中うえ 橋本店
和歌山県橋本市隅田町垂井49-2
twitter:https://twitter.com/sanmenryu1230
オープン日:2019年7月1日
(取材・文・写真 KRK 令和2年8月31日)