近年の大阪ラーメンシーンを盛り上げている、多くの人材を輩出した名店がある。屋号は"麺や輝"だ。2000年に自家製麺、無化調の魚系とんこつラーメンを看板にオープンし、現在は大阪だけでなく三重や台湾にも店舗展開しているようだ。
今回、森代表が四日市市(三重県)から大阪に来るタイミングで取材をさせてもらえることとなった。輝出身の店主には当サイトでも何度か取材しているが、輝の代表とは完全な初対面。"麺や輝"森代表にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「三重県の四日市市です。」
- ラーメンは好きだったんですか?
「学生時代とか外食するとしたらラーメンが多かったです。家族でもよくラーメン食べに行っていましたし、昔から好きでした。当時、四日市にはまだ個人店はあまり無くて、どさん子ラーメンとかでしたね。」
- ラーメンをする前は何の仕事を?
「ウチの両親が四日市市でダスキンのフランチャイズをしているんですよ。それで僕が27歳の頃、長男なので継ぐという形で出向研修で江坂(大阪)へ1年間ほど来ることになったんです。その時に豊中に当時あった"福将軍"というラーメン屋さんに嵌ったんです。あっさり豚骨でしたね。
そして1年間の研修を終えて四日市市の実家へ戻り、ダスキンを1年半ほどしていたんですが、親父と喧嘩してしまって、それで『自分も自営業をする!』と言って実家を離れたんです。」
- 自分でしたいと思ったことは?
「自分で何をするか考えた時、大好きだったラーメンが頭に浮かびました。それで江坂時代に嵌った福将軍さんに電話をしました。
電話すると『面接に来れますか?』と言われて、四日市から大阪へ面接に来ました。それで採用していただきました。29歳の頃ですね。」
- 福将軍に入って、どうでしたか?
「当初は3年くらい務めるつもりだったんですが、1年くらい経った頃に親父から電話があって、『おじいちゃんが持っていた空き地が売れたから、そのお金で自分のラーメン屋をしたらいいんじゃないか?』という話でした。親父とは既に仲直りはしていました。それで『ありがたく使わせてもらうわ』と言い、福将軍から離れて、独立に向けて動き始めました。」
- 自分の店へ動き始めてからは?
「福将軍の豚骨が好きだったんですが、化学調味料が入ったのを毎日食べるのに抵抗があって、自分ではそういうのに頼らないラーメンを作りたいなと思いました。それで四日市の実家に戻ってから、鰹節とか昆布とか使って自作を繰り返していました。
元々は、学生時代に札幌にいて、その当時からラーメンが好きで自作していたんですよ。たまたま教えてくれる人がいて、麺も自分で作っていました。学生寮の寮祭の模擬店でラーメン屋をしたりもしていました。」
- 参考にしたお店もあるんですか?
「自分の店をそろそろオープンしようかって時に、東京の友達が遊びに来たので味見をしてもらうと、『これは東京中野の青葉ってラーメン屋に似ているな』と言ったんです。それで気になったので東京へ行って、青葉に食べに行きました。たしかに系統は似ているけど青葉の方が全然完成度が高くて、『美味いな~』って思いましたね。その時に東京の魚介豚骨のお店を数軒食べて、いろいろ参考にさせてもらいました。」
- オープンに向けて順調に進みましたか?
「自作を10ヶ月ほど続けて、ある程度、自分が出したいラーメンの形はできてきました。当時、自家製麺をしているのも正雀の"とっかり"くらいで、大阪でほぼ無かったんですよね。無化調や魚介豚骨も無かったので、けっこう自店のアピールポイントがあるな~と思っていました。」
- 最初から大阪ですると決めていたんですか?
「大阪か四日市で迷っていたんですが、当時、大阪に彼女がいたので大阪でやることにしました(笑)。それと、やっぱり大阪の方が市場が大きいので成功しやすいんじゃないかと思いました。」
麺や輝 本店(2000年11月18日オープン)
- 場所はいろいろ探していたんですか?
「三ヶ月ほど探していたんですが、なかなか無かったですね。当時、淡路に住んでいて、不動産屋さんが淡路と上新庄の間にある菅原って場所にある物件を出してきたんです。『年内には始めたいな~』と考えていたので、その物件で決めました。当時、淡路周辺にラーメン屋は少なかったですしね。」
- オープンして、お客様の反応は?
「最初の1年間は全然でしたね。当時はお客様には『麺や・・』って屋号がラーメンに繋がらなかったんですよね。だから紺の暖簾で"麺や輝"だったので、うどん屋さんと思って入ってくるお客様が多かったです。東京には『麺や・・』って店があってお洒落な感じがしたんです。その時は『失敗したな~。ラーメン輝にしたらよかった。』と思いましたね。」
- 提供していたラーメンはどうでしたか?
「自作をしていた時は少量なので、やっぱりお店で大量に作るのとは全く違うので、毎日試行錯誤でしたね。」
- つけ麺を始めたのは?
「オープンしてから5年目の頃でした。当時、大阪でも少しずつ"つけ麺"を出す店が増えてきていたんですよ。賄いで試作してみるとけっこう美味しくて、それで始めました。」
- 店舗展開をするきっかけは?
「元々は僕とアルバイトでゆっくりとしていたんです。ある時、社員希望の子が来たので、『社員をとるつもりは無い。アルバイトならいいけど?』と言ったんですよ。その子はアルバイトとしてしばらく働いてからある事情で一旦辞めたんですが、また『アルバイトでもいいですから』と戻ってきてくれたんです。その時に『社員でいいよ』と雇いました。
それまでウチは『1日100杯まで』と決めていたんですが、でも彼が入るとちゃんとした給料を払えないので、『じゃあ、2号店をしよう!』と決めました。2号店が中津店です。そういうことが無かったら、僕は店舗展開はしていなかったと思います。元々、ゆっくりしたかったですから。1人でしている頃は海外旅行とか自由に行けていましたしね。」
- それから店舗展開を続けていくんですね。
「2号店を始めてからは休めなくなったので、それから店舗展開を進めていきました。3号店してからちょっと落ち着いて、それなら4号店もって感じでしたね。4号店だけ"天四郎"と名前を変えたのは、鶏ガラを入れて味を変えたからなんです。」
- 台湾店をするきっかけは?
「5店舗くらいして順調だった頃、大阪で店舗展開する面白さが無くなってきたんです。僕は旅行が好きだったので、それで海外出店も考え始めました。中国の大連とか視察に行っていた時に、ウチの製麺スタッフが『台湾はどうですか?』と言ったんです。そのスタッフの奥さんが台湾人だったので、一緒に台湾に視察に行って『台湾の方がいいな!』と思いました。
台湾では店舗を探す不動産屋さんを見つけれなかったので、僕が自転車借りて、自分で物件を捜しまわっていたんですよ(笑)。シャッター下りている空き店舗っていう漢字を見つけて、それを日本語ができる不動産屋さんに伝えて、『大家さんに連絡とってください!』という感じでした。」
- 実家がある四日市市に2015年に出店した理由は?
「ウチの親が高齢になってきたので、長男だから近くにいた方がいいかなと思いました。それまでは年2回ほどしか帰っていなかったですから。」
- 多くのお弟子さんを輩出していますが、独自のルールとかあるんですか?
「僕の感覚で決めたんですが、最低3年は修業してもらうようにしています。僕自身もそうでしたが、この業界って1年とかで辞める人が多いんですよ。店を運営する側としては、1年とか1年半で辞められるとせっかく教えて動けれるようになったのに全くメリットが無い。3年いてくれてお店に貢献してくれたら、タレから全部教えるよってことにしています。」