大阪の空の玄関口"伊丹空港"近くに、味噌ラーメン専門店がある。屋号は"みつか坊主"。味噌ラーメン不毛の地だった大阪に、味噌ラーメンの良さを徐々に浸透させていき、「味噌ラーメン=みつか坊主」として不動の地位を確立するまでに至る。
2号店"醸"で大阪市へ進出、味噌との関わり、長く見てきた大阪ラーメンシーンについて、いろいろ聞いてみたいことがある。豊中市の本店でゆっくりと話す時間を頂いた。"みつか坊主"齊藤店主にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「蛍池です。ここが地元です。」
- ラーメンとの出会いは?
「初めてラーメンを食べたのが中学生くらいだったんですよ。遅かったですよね。近所に天下一品ができて、親がオープンしてすぐに食べに行ったんです。それで『凄いラーメンがあるで!』って僕も連れて行ってくれたんです。ラーメン食べたのは、それが初めてでしたね。」
- 旅行がかなり好きだったんですよね。
「大学を中退した時に、ある人から『お前、旅に出ろよ!』と言われたんです。それで独りでアジアを旅行したりしてましたね。その頃、スポーツが好きだったので、スキー場の仕事をしていたんです。長野や北海道に仕事で行って、各地でラーメンを食べていました。
カナダにも3年ほど行っていて帰国した時に、日本で住むなら北海道がいいなと思いました。それで北海道で営業マンをずっとしていました。営業に行くとどうしても食事をパッと済ませたいので、ラーメンをよく食べていましたね。」
- 北海道だと、やっぱり味噌ラーメンが多かったんですか?
「最初は味噌ラーメンが苦手だったんですよ。関西では味噌ラーメンをあまり食べる機会が無かったし、北海道で食べるとラードが多くてなんか辛いなって。でもウィンタースポーツ終わって帰ってきたら、冬は味噌ラーメンが美味しく感じるようになったんですよね。それで味噌ラーメンに少しずつ嵌まってきたんです。」
- 当時、最も印象に残っているお店は?
「当時、家から20分ほどかけて石狩市の方へ行ったら、信玄さんというお店がありました。そこで"信州"って味噌ラーメンを食べた時に、『あっ!こういう味噌ラーメンもあるんだ!』って驚きました。それから信玄さんによく行くようになって、どんどん味噌ラーメンに嵌まっていきました。ちょうど近くにいい温泉もあったんですよね。」
- ラーメン屋をしたいって気持ちは?
「当時はまだ全然無かったですね。ただ、僕が子供の頃は蛍池は華やかだったんですが、関空できてからは一気に人がいなくなって過疎化していって、皆が『昔はよかった』と言うようになってきていたんですよね。それが僕はあまり好きじゃなくて。
ある時、大阪にちょっと戻って知り合いと飲んでいる時に蛍池の現状とかについて話していたら、その人が『お前、ここで自分で稼いでみろや!」と僕に言ったんです。27歳くらいだったんですが、その時に『蛍池で自分で何かしてみようかな?』と思いました。それから北海道に戻ってからも半年くらいはモヤモヤして過ごしていて、ある日、大阪に帰ろうと決心したんです。」
- 大阪に帰ってきて?
「戻ってきて、さぁ、どうしようという感じでしたね。当時も大阪には味噌ラーメン屋さんが少ないから、最初は信玄さんに手紙を書いたんですよ。」
- 大阪から北海道のお店に手紙を?
「信玄さんに『大阪に出店しませんか?』というお願いの内容でした。信玄さんと全く知り合いでも無かったんですが、物件資料とかも付けてお願いしました。とにかくこの街(蛍池)が面白くなればいいなって気持ちだったので、信玄さんの味噌が来たら面白くなると思ったんです。それから電話もしましたが、あっさり断られましたね(笑)。
それから他のお店にも手紙を出したりしていた時に、大阪のラーメン事情をもっと知らないといけないなと思いました。それでラーメン食べ歩きも始めました。味噌ラーメンが面白いなとはずっと思っていましたね。」
- 自分でしようと思ったきっかけは?
「手紙に添付する物件資料とか作っている時に、フッと『僕はラーメンのことを知らな過ぎるな。食べ歩いてはいるけど、作ったことはないな』と思ったんです。それでラーメン関連の本を購入して、自作を始めました。ラーメンを自作している内に、近くに空き物件もあるし、自分でラーメン屋をしようと思い始めました。近くに大学があったのも大きいですね。」
- どんなラーメンを作っていたんですか?
「最初は信玄さんのイメージが頭の中にあったんですが、自作をしている内に北海道の味噌ラーメンをそのまま大阪に持ってくるのはどうなんだろうと思い始めたんです。たしかに(北海道の味噌ラーメンは)美味しいけど、でも夏場は僕はあまり嵌まらなかったな~とか考えて。それで最初に作った北海道のとは全然違う、白味噌ラーメンだったんですよね。」
- 味の方は?
「最初は全然でしたね。他の仕事をしながらも、家で2日に1回は作っていました。よくやっていましたね。ラーメン作りは面白かったし、味噌って決めていたので。味噌っていざ調べてみたら凄い種類があるので、味噌保存用に冷蔵庫を買って、自作専用に部屋を借りてやっていたんですよ。あらゆる味噌を試していましたね。」
- 影響を受けたラーメン屋さんは?
「麺哲さんですね。食べに行った時に動きとかずっと見ていて、ラーメンってこうやって作るんだって。器って温めるんだなとか。それで麺野郎さんができて、真剣に作っているな~って。やっぱりラーメンって真剣に作るものなんだなって思いました。それと友達に教えてもらって"虎一番さん"にもよく行ってましたね。虎一番さんと麺哲さんが僕の中の先生でした。その時期に凄いお店と出会えたのは、運が良かったです。」
- 池村製麺との出会いもその頃ですね。
「スープがある程度できてきた時に、いろんなものを試してみたいと思ったんです。その頃に池村さん(公式HP)と出会いました。池村さんもたまたま生麺をやろうと思っていたタイミングだったようで、僕が自作していた部屋に来てくれて、『このスープに合わせて麺を作ってみます!』と言ってくれたり、まだオープン日も決まっていない僕とちゃんと向き合ってくれました。」
みつか坊主(2007年10月オープン)
- いよいよオープンまで辿り着いた時の気持ちは?
「北海道から帰ってきて、1年ほど経った頃でしたね。オープンまで辿り着けたのは、池村さんの存在も大きいですね。納得するまでという気持ちがお互いにありましたから。じゃあ、やれることはやってみようって。」
- オープンに向けて仕上がったラーメンは?
「白味噌、赤味噌、辛味噌の三本です。味噌ラーメン専門店をするという気持ちは、一切ブレなかったですね。」
- オープンして順調だったんですか?
「オープンして三日間くらいはお客さんが来てくれていたんですが、だんだん減っていって、半年後には1日2人とかの日もあったりとか。2年目でやっと平均で1日40杯くらい出るようになってきたんですよ。初めて(自分に)給料が出たのが3年目でしたから、大変でしたね。」
- 味噌ラーメンに対して、お客さんの反応は?
「最初は面白いって言ってくれるお客さんもいたんですけど、どうしても北海道の味噌のイメージが大きいので、白味噌食べた時に『なんで細麺やねん!』とか言われたりしましたね。カウンター越しにそういう言葉を直で受けていたので、『アカンのかな?味噌が駄目なのかな?細い麺がアカンのかな?』とか、オープン1年目は迷いが凄くありました。」
- 悩みを乗り越えたきっかけは?
「オープンして2年目くらいに、丈六さん("麺屋丈六"店主)がたまたま食べに来てくれたんですよ。その時に僕が同じものを作れないことに悩んでるって相談したんです。それを聞いて、丈六さんが『同じものなんて作れるわけがないやろ!』と言ってくれたんです。それを聞いて凄く気持ちが落ち着いたんです。ありがたかったですね。丈六さんを恩人だと思っています。」
- その頃から店の方も順調になっていくんですね。
「お客さんと向き合いだした頃に、関西ウォーカーの企画があって、もっとあっさりした味噌を出そうと"KANSAI"という商品を出しました。固定概念を崩したいなという気持ちと、お味噌汁が好きなこともある。それが巧くマッチして、とても評判良かったんです。
そしてオープン3年目に、某雑誌で総合グランプリを頂きました。そして、気が付いたら入店まで2時間とか待って頂く行列ができるようになっていました。」
みつか坊主 醸(2013年8月29日オープン)
- 2号店"みつか坊主 醸”を始めるきっかけは?
「みつか坊主の5年目の頃、匿名のお客さんから手紙が来て、『蛍池で満足してるのか』と書いていたんです。それだけが理由ではないんですが、ウチのスタッフが増えてきていたし、自分たちが池村さんの麺をもっとPRしたいという気持ちもあったんです。それで『じゃあ、出稼ぎにいこう!』と決めました。淀川を越えようって。」
- 醸の場所は?
「僕たちは"お客様にわざわざ来てもらう"ということは大切にしているんです。その分、丁寧に何でもしようって。人がいるから、儲かるからってお店を出すんじゃなくて、僕たちがお店を出すことでその街や場所がどうなっていくか、その場所に貢献できるかというコトをメッチャ想像しているんです。
あとは僕はあまり競争するのも好きじゃないんです。人がいるからとか、同業がいるけど勝てるからって勢いでお店を出店するのもいいけど、僕たちにとって大切なのは、地域と一緒に"発酵できるか?""醸せるか?"というコトなんです。お味噌から学んだ発酵学ですね(笑)。その場所からモノや͡͡コトやお金を吸い上げてインプットするだけで、地域に公平なアウトプットをしていなかったら、発酵的に違和感があって腐敗してしまうような気がするんです。地域とのfair tradeこそが大切だと思っているんです。それでこの場所がメッチャ気に入りました。規模の大きい店を考えていたので、探していたら空いているモータープールを見つけたんです。募集って貼り紙があったので電話してみたら、『自分で作ってもらえるならいいですよ』って。それでここに決めました。」
- 箕面ビールとの関わりは?
「自分が好きだったんですよ。それでよく飲みに行っていて、たまたまバーベキューに呼んで頂いたんです。そこで先代の社長さんとお会いして、僕がラーメン屋をしていて、本当は店でも箕面ビールをみんなに飲んで欲しいんですよって言うと、『やったらいいやん』って(笑)。そこからですね。僕らの中で美味しいビールがあることを知ってもらいたいって気持ちがあった。それで醸でもバーカウンターを作って、ビールだけ飲んで帰ってもらってもいいんじゃないかって。」
- 本店での火事について、少し聞かせてもらえますか?
「2014年の12月30日でした。前日まで本店で忘年会をしていて、それからスタッフみんなで海外へ出発していたんです。1人だけ疲れているスタッフがいたので、実家帰ってゆっくりしときって残したんです。その子が店で一人で仕込みをしていたんですが、前日忘年会だったので火をつけたまま寝てしまったようなんです。それで火事になってしまって。海外から2日後に戻ってきたんですが、うちの奥さんがいろいろ全部してくれていました。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。」
- 今の本店の場所は?
「昔、うどん屋さんだったんですが、僕が23歳の頃に閉めていて、それからずっと空いていたんです。たまたま縁があって話してみると、『自分で工事するなら安くでいいで!』ということだったので、この場所で決めました。」
- 味噌の魅力とは?
「分かりやすく言うと、いろんな所にいろんな味がある。僕、お味噌汁が凄く好きなんです。味噌は奥深くて、同じ材料でも同じ味噌はできない。旅行行く先で味噌を通して、各地の文化に触れていける。例えば、九州の味噌汁を見ていると豚骨ラーメンが九州で流行る理由が分かってくるんです。昔から飲んでいる汁ものでその地域性が出てくるんですよね。こういう風なモノを食べて育っているので、こんなラーメンが出てくるんだなとか。」
- 齊藤店主のラーメンに対する想いを聞かせて下さい。
「僕はラーメンに凄く成長させてもらっていると思っています。ただの好きなところから、こんなに教えてもらうことが多かったかなと思うくらい、いろいろなことを教えてもらっている。僕の中ではラーメンって先生ですね。人生が思いっきり変わりましたからね。いろんな意味でラーメンが好きです。」
【KRK動画】屋号の由来、ラーメンの紹介
<店舗情報>
■みつか坊主
住所:大阪府豊中市螢池中町2-5-13
Twitter:https://twitter.com/Mitsukabose
Facebook:https://www.facebook.com/Mitsukabose
(取材・文・写真 KRK 平成30年7月30日)