Vol.65:山為食堂


 私が初めて和歌山へラーメンを食べに行ったのが、平成20年10月。当時、本格的にラーメン食べ歩きを始めたばかりだった私が選んだ店が"山為食堂"だった。まだ知識や情報も無く、大阪や奈良でも最新の人気店でばかり食べていただけだったので、創業1953年のこの老舗への訪問は私にとってはとにかく驚きの連続だったのを憶えている。映画の中でしか見ないような昭和の雰囲気、独特の獣臭が漂う店内、そして濃厚でいて奥深い味わいの中華そば!何もかも衝撃で、一気にラーメン食べ歩きの楽しさに目覚めたように思う。

 ラーメン文化が深く根付いてる日本屈指のラーメン処"和歌山"で、長く看板店を背負ってる店主はどんな方なんだろう?緊張感のあるインタビューができそうだ。"山為食堂"二代目 友石店主にKRK直撃インタビュー! 


- 先代との関係は?

「私は息子なんです。家族ですね。」

 

- いつから店に入っていたんですか?

「最初は全然その気は無く、自由にしていました。高校の頃から他の飲食店でアルバイトとして働くようになっていろいろ覚えたので、自分の家の仕事も似てるようなことをできるようになってきたんです。それで家の方も手伝うようになってきて、自然と入っていきましたね。アルバイトの傍ら、こっちではごはんを盛ったり、木くずを入れる作業とかしていました。当時は『おが(おがくず)』だったんです。」

 

- おが?

「燃料が木くずで炊いてた時代。火力がブワーって上がる時があるし、忙しい時に火力がガクッて落ちてしまったり。それで木くずを入れたりするのを手伝っていましたね。それが途中から灯油になりました。本格的に店に入りだしたのは20歳の頃だと思います。」


山為食堂(創業昭和28年)


- 山為食堂の始まりについて

「父親が和歌山の力餅食堂さん(約100店舗網を展開する老舗の大衆食堂)で修行をしていたんです。当時、力餅さんの暖簾分けみたいな店で山為って店があったみたいなんですよ。昭和20年代の話なので私も経緯は分からないんですが、天王っていう所に山為って店があって、松江の方にも一軒あったらしい。流れは分からないんですが、父親は力餅から山為食堂に手伝いにいってたみたいなんです。それで父親が自分の店を持つってなった時に『自分の店をするねんやったら、山為って名前でするか?』ってことだったらしいんです。」

 

- 食堂として始まったんですね?

「最初、うどん、そばでしてたみたいですけど、途中からラーメンをやろうかって。当時、屋台のラーメンはあったけど、店舗を構えてやってるラーメン屋が無かったようです。父親は自分で食べることが好きだったので、いろいろスープとか考えてたらしいんです。」

 

- 場所はずっとこの場所なんですか?

「昭和28年からずっとここです。開店した当時は周りが焼け野原だったので、ここから和歌山駅が見えたそうです。そういう時代にスタートしたそうです。」


- 先代の教えは?

「教えてもらったというか、先代の仕事を見て学ぶって形でしたね。やってることを見て、完全にコピーじゃないんですが、自分なりにいろいろ試行錯誤やって『この方がいいんじゃないかな?』とか。」

 

- 山為食堂の味?

「別に変わったものはしていないんですが、素材を大切にしています。国産の豚骨ですね。豚骨でも賞味期限が2年あるんですが、ウチでは落として商品になってから1ヶ月、2ヶ月の新しいものを肉屋さんに頼んでいます。やっぱり2年経って最終のくらいになると違う味になるので。今まで父の代ではそういう指定もできなかった時代で、逆に豚骨自体は安かったらしいんですけど。今は冷凍で来るから『冷凍やから2年もつ』って言うんだけど、やっぱり最初の1ヶ月と、1~2年経ったのとは違う。スープの濁りが違うと思うんですよ。臭いとかも全然違う。だから新しいのを使っています。」


中華そば


- 山為系?

「一括りに和歌山ラーメンって言ってもいろいろあります。井出さんの系統で正善さん、丸三さんとかあるでしょ?ウチも『井出系ですか?車庫前系ですか?』ってよく聞かれるんですけど、ウチはどっちも属していないので、"山為系"って言うんです。」

 

- 山為系の店は他にあるんですか?

「うーん、直接は無いですけど、ちょっと前にウチを手伝ってもらってた方が、高速のインター手前で"丸花"って店をやっています。今はウチのラーメンをやっていないけど、開店当初はウチのラーメンと今の家系ラーメンの二本立てでスープをやっていたんです。それを半年ほどやっていたんかな?2本立てでスープやるのも大変だし、家系の方も忙しくなって。『また何年かしたら復活させます』って言ってますね。彼はウチで3~4年ほど手伝ってくれていて、私は『何も教えることはできないで』って言ってたので、彼は自分なりに見て学んでいました。自分で豚骨を買って、家に持って帰って炊いたりしてたみたいです。質問してくれたらなんでも隠さずに答えるけど、それでも自分で覚えないとって。私自身もまだまだ試行錯誤をしてるところなので。」


- 店内は当時のままなんですか?

「厨房を平成9年にやり替えました。規模を大きくしましたね。そして平成10年くらいにラーメンブームが来ました。前の規模だったら対応できなかったと思う。」

 

- 和歌山ラーメンブームについて

「和歌山のカレー事件があったでしょ?あの時、全国から多くの記者の皆さんが和歌山に来てて、昼食でいろんな店でラーメン食べるんですよね。それで記者の皆さんが各地に戻ってから『美味しかった』って口コミが拡がって、東京や全国から和歌山にラーメンを食べに来る流れが生まれた。そういう流れじゃないかな?って思うんですよ、僕は。平成9年~10年頃です。」



- "からみそ"について?

「からみそは自分の代で始めたんです。自分は辛いものが好きなんですよ。それで最初、豆板醤を入れてやってたんですけど、豆板醤だけだとお店に置いてるからね。それでブレンドして割合決めてやっています。『美味しいわ!』って人もいますけど、『やっぱりノーマルのがいいわ』って方が多いですね。もっと爆発的に受けると思ってたんですけどね(笑)」

 

- "志のだ"について?

「刻み揚げが入ったうどんですね。揚げは甘く炊かないで入れています。父親の拘りで、甘くすると出汁が分からなくなってしまうからって。」


- 今、三代目と一緒にしているんですね?

「息子です。息子は大阪へ就職していたんですけど、おばあちゃんが調子悪くなった時に帰って来てくれていろいろ店を手伝ってもらっていたんです。それで『会社の方を辞めて手伝うわ』って言ってくれて、そのまま自然と入ってきてくれました。」

 

- 店をやりながら教えるのは?

「自分のやってることを変えられたらいやだから。手順でも『そこは違うで』とか言いますね。やっぱりね、個性が出るというか、炊き込み時間とか『もうちょっと炊かなあかんで』って。しばらくほっておいた時期もあったんですが、今はもう一緒にやるようにしています。難しいですね。骨でも大きい時もあれば小さい時もある。砕き方も違うし。炊いて炊いてドロドロにしていいものでもないし、スープ炊いて色は出てもそれでも骨によって違うし。タレの量とか、チャーシュー炊く時の醤油や砂糖の量とかはきちっと量るように教えています。『量れるものは量ってきちっとしないとあかんで!』って言っています。他はもう勘やから仕方ないので、覚えてもらうしかないですから。僕も先代からそうやって自分なりに『これはこうやってんねんな』って学んできたことですから。」

 

- 二代目の拘りは?

「最高の味って自分の中であるんで、一杯目から全部その味にしたい。ブレを少なくしたい。父親の代から比べたら、ブレは少なくなってると思うんですがね。昔は『午前中は薄かったけど、午後は濃かった』ってよく言われていましたから。うどん出汁の場合、ウルメと昆布を上げてしまってスープにするけど、ラーメンの場合、それだけではすまない。そこからまた手を加えて完成品にする。」



<店舗情報>

■山為食堂

住所:和歌山県和歌山市福町12

創業1953年(昭和28年)

(取材・文・写真 KRK 平成29年10月)