多くのファンがどれだけこの日を待っていただろう。2016年8月10日、一軒のラーメン店が復活した。屋号は"十三ら~めん担担"。かつて十三駅西口の飲食店街、通称"しょんべん横丁"で"十三の味"として絶大な支持を集めていた人気店だったが、2014年3月、36店舗が焼けたあの火災によって店が全焼してしまう。
全てを失ってしまった店主が多くのファンからの激励を受けて、遂に東口に移転して営業再開。連日の大行列は各SNSでも話題になり、新規客も多く訪れることになっただろう。一体、この店の魅力は何だろう?多くの人にここまで愛されてる店には滅多に出会わない。いろいろ聞いてみたいので、知り合いを通してインタビューする機会を作ってもらえた。食べに行ったことはあるが、店主と話すのは初めてだ。"十三ら~めん担担"辻 店主にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「大阪の堺です。ラーメン屋をする前は、住之江の方で喫茶店のアルバイトをしていました。」
- ラーメン屋への興味はいつから?
「その当時、バイクが好きでして、バイク関係でたまたま知り合った人がいました。その人が十三の駅前で店を持っていたんですよ。それである時、『今の店を閉めるから、次、あんた何かするか?』って言われました。『何かしいや』って言われても(笑)。喫茶店も儲からないし、居酒屋なんてしたことないし。十三には当時からいろんな店があったので、『その中に入って勝負できるものは?』って考えました。その時、頭に浮かんだのがラーメン。その当時、ラーメン屋って少なかったんですよ。『それならラーメン屋でもしようか』って簡単な気持ちで入ったのが、地獄の始まりですわ(笑)。」
- ラーメン屋開業へ向けて?
「修行はどこでもしていなくて、全部自己流です。元々は体重が50キロくらいだったんですが、ラーメン屋するために各地を食べて食べて食べ歩いて、半年で80キロを超えました(笑)。」
- 当時、どんな店で食べていましたか?
「金龍さんや天六の方にあった北海道ラーメンの店。堺でも何軒か。京都や滋賀にも行きましたね。滋賀で行った店は、今思えば来来亭の発祥の店だったみたいです。」
- 屋号の由来?
「担担って中国語で『屋台』って意味なんですよ。『天秤棒で具材などを担いで行商してた形』を担担って言うんです。要するに屋台ラーメンです。そういう意味なんですよ。日本の屋台のように最初からいろんな具材とか入ってるものでなくて、中国では麺だけなんです。それに塩や砂糖、ザーサイ、ミンチ入れたりしてお客さんが勝手に作って露店で食べるのが担担。今までお客さんから『あんた担担の意味知ってるんか?』って聞かれたのが3人くらいいましたね(笑)。」
- 担担のラーメンは?
「いろいろ考えたけど手に入る材料が限られてたので、『この材料で何ができるかな?』って考えました。今ならネットでいろんなものを入手できるけど、当時は何も無かった。で、とりあえず豚骨でやってみようかって。使える材料が限られてたので、だんだん今のような味になってきました。」
らーめん担担(創業1983年)
- そして1983年、十三駅西口近くでオープン。
「どっかで修行してたら半年や1年でちゃんとできるんだろうけど、自分で全てしてたので長い時間がかかりました。オープン時は不安しかなかったです。当時の十三界隈は活気が凄くて、24時間やってる店がたくさんありました。」
- 当時の味は?
「基本はあまり変わらないんですが、少しずつ進化させていきましたね。」
- メニューはずっとラーメン一本だったんですか?
「最初、当時では珍しく味噌ラーメン専門店だったんです。17年間くらいは味噌でしていました。麺は北海道の西山製麺から仕入れていました。昔は餃子もやっていました。」
- 後にメニューを一新した理由は?
「店を改装したのがきっかけですね。当時、北海道の麺を使ってると回転が悪かったんですよ。茹でるのに4~5分かかってたので、『なんとか早くする方法がないかな?』って考えていました。それで違う麺を探して、全部最初から作り直したんです。麺は大弘軒さんのにして、その麺に合わせてスープも変えていきました。その時に味噌をやめました。」
- 味噌をやめて、常連さんの反応?
「未だにいますよ。『味噌担担しないんか?』って言うお客さん(笑)。ウチは長いお客さんが多いですからね。20年来通ってくれてる人とか。当時学生だったお客さんが、今は子供連れてきてたり。」
- 病気で休業した時は?
「延髄動脈解脱による脳梗塞だったんですよ。仕事中に立ってられなくなってね。『おかしいな~』って店を閉めて、椅子に座って手を触ったら痺れてるんですよ。で、すぐに救急車で病院へ運ばれました。CTやMRIでもなかなか原因が特定されず、4日間ほど入院して精密検査しました。それで血管に白い点が見つかって、「動脈解脱しています」って。なかなか原因が分からなかった理由が、『この病気で来る人は死亡で来る人ばかりなので』って(苦笑)。左半身の感覚が全部無くなってしまって、座っても左に勝手に倒れてくる。それで『歩けるようになるのに3ヶ月かかる』って言われました。」
- その時の心境は?
「自分で病院の待合室とかでリハビリを続けていました。生活かかっていますから、早く店に復帰したかったんです。それから1か月半くらいで『店に出ないとアカン』って退院させてもらいました。普通の脳梗塞だったらすぐにリハビリするけど、僕の場合、血管だったから無理はできなかったんですが、当時は『死んでもいいわ。店に出ないと!』って無理を言っていました。」
- そして店に戻ってからは?
「店に帰ったら、ウチの嫁が『店は無理やで。丼も持てないやん。どうやってするの?』って。実際、何も入ってない丼を持ってもすぐに落としてしまう。それから毎日、丼を持って、水を入れてとかの練習を繰り返しして、その間にスープを作ったりしていました。1週間くらい経って嫁さんが『もうできるな』って言ってくれました。」
- 営業再開して?
「しばらく休んでたでしょ?まだしんどいから『静かに営業しよう』って思い、貼り紙もせずに当日開けたんです。そしたら店の外に30人ほどのお客さんが並んでいました。『え~』って驚きましたね。臭いで分かったみたいです。それで『しんどいから22時半くらいで閉めよう』って思ってたんですが、結局、0時半まで行列が続いていて、早仕舞いはできなかったです(笑)」
- 2014年3月、火災があって閉店することに。
「その日、店を終えて帰宅して15分くらいで電話が鳴ったんです。朝方の6時頃でした。『火が出てる!』って。それで急いで店に戻ったら、もう店に近寄れないほどの状況に。あと15分、僕が店におったらね。何かあった時のために、店に消火器を5~6本用意していたんです。ウチの裏から火が上がったから、上から消火器を入れてたらちょっとくらいは被害を防げたかもしれない。だからその15分を悔やんで悔やんでね。」
- どんな心境でしたか?
「いや~、もう開き直りましたね。消防車の人が大量に水をかけてるんですが、炎の方が勢いが強くて全然消えない。それで『もう無理やな~』って思いました。あんだけ水をかけてるのに全然消えないし、爆発はするし。それでみんなで『コーヒー飲みに行こうか』って喫茶店に行きました。」
- その後は?
「もうね、3~4ヶ月間、ベッドから出れなかったんです。落ち込んでしまって、気持ちも体もクタクタで。それから、夜、火災現場を警備したりしてて、近所の人達と交流したり。『これからどうするのかな~』って考えていました。それでもう『僕らには復興は無理かな~』って思い、違う仕事を始めることにしました。1年間ほど何もしなかったので生活費が減ってきてたので。」
- ラーメン屋ではなくて、別の仕事を?
「その時はもうラーメン屋再開への気持ちは8割ほど無くなっていましたね。そして別の仕事をし始めたらもうラーメンへの気持ちが全く無くなってしまいました。その仕事が面白かったんですよ。体も楽だったし(笑)。救急車に乗ってたんです。病院から病院へ重症患者を運んだりしてたんですが、なんか責任感があってやりがいがあったんです。人と一緒に仕事するってのが初めてだったので、二人でチーム組んでするって仕事が楽しかった。」
- その仕事から離れたのは?
「その頃、糖尿がちょっとあったんです。当時、車の運転で持病持ってる人の事故が世間で騒がれていて、病院の方から『どうする?』って聞かれました。それで『迷惑かけるなら辞めます』って退職することに。それからは本当に悩みましたね。『何をしたらいいのかな?』って。今でも痺れてますから、力仕事が全然できないんですよ。」
- ラーメン屋再開への気持ちは?
「ある日、ウチの娘がえらい怒ってね。娘は空手やってたんですよ。それで昔、試合の前とかよく泣いてた時に、僕は『やってみないと分からんやろ』って娘に何度も言ってたんです。それと同じことをね、その時、娘から言われたんですよ。『ラーメン屋、またやってみないと分からんやろ!』って。」
- 再開へ動き始める?
「『それなら一回、今までの付き合いもあるし、銀行とかに話してくるわ』って。でも融資がなかなか難しくてね。すると息子が『俺がTwitterでいろいろ呼びかけてみるわ』って言ってくれて。そしたら凄い反響があって、昔からのお客さん達が手紙とかいっぱい送ってきてくれて。僕はその手紙を銀行に持っていったんですよ。銀行の人が一枚一枚読んでくれて、それで融資が決まりました。」
- 場所は?
「ラーメン屋は最初の何年かはしんどいんですよ。お客さんがつくまで。十三だったら今までのお客さんがいるからって思い、十三で場所を探していました。それで付き合いのあるスナックのママが『ここが空いたよ』って話を持ってきてくれて、それで東口ですることに決めました。」
- イチからのスタート?
「火事でタレも含めて何もかも失くしてしまったんです。しかもラーメンから離れてる間にレシピもほとんど忘れてしまっていて、道具屋筋を走り回ったりして大変でしたね。」
- 店の内装は?
「最初、新しい店するんだからっていろいろ内装も考えたんですが、ウチの嫁が『前と一緒でいいやん』」って。僕は『え~、こんな色なんて時代遅れやで』って言ったんですが、嫁が『お客さんはまた戻ってくるよ。その時にまた同じ色で私はやりたい』って。で、業者さんにも『前と一緒で』って注文しました。」
十三ら~めん担担(2016年8月10日 移転オープン)
- 2016年8月10日、営業再開。
「最初はスープがあんまり良いのができてなかったんです。だからあまり多くのお客さんには来て欲しくなかったんですよ。『このスープだと、昔の客は怒るだろうな~』って。でも予想以上に多くのお客様が連日来てくださいました。」
- お客さんの反応は?
「もう泣きながら食べてくれてる人もいましたね。ありがたいことです。」
- 新規のお客さんも増えたと思いますが?
「それも大きかったです。東口はまた客層が全然違うんですよね。昔の場所だと、食べてるお客さんに向かって表から『早く喰えよ、あほんだら』って(笑)。中と外の客が喧嘩したりしてましたから。こっちではそういうのが無いですね。」
- 跡継ぎは?
「ウチの息子がやるって言ってますけどね。でも結婚して家庭を持ったところなので、まだ不安定なことをさせたくないって思います。」
- 辻さんにとって「担担」とは?
「僕は『自分が行きたいな』って店を作っただけ。それ以外ない。奇をてらったラーメンは作れないし。ウチは毎日のように同じ人ばっかり来るんです。だから新しいバイトが来ても『同じお客さんばっかり』ってビックリするんですよ(笑)。」
<店舗情報>
■十三ら~めん担担
住所:大阪府大阪市淀川区十三東2-11-6
Twitter: https://twitter.com/ra_men_tantan
(取材・文・写真 KRK 平成29年5月)