大阪の新たなラーメン激戦区として注目されつつある塚本エリア。梅田からアクセス抜群の立地に目を付けて、近年多くのラーメン店が集まってきて盛り上がってるエリアだ。しかし塚本が激戦区になるずっと前、2010年からこの場所で多くのラーメンファンに支持されている人気店がある。麺一盃だ。
塚本駅前の繁華街からはちょっと離れた静かな場所にあるが、常に混んでいるイメージがある。レギュラーのラーメンで安定して人気があり、しかも個性的な季節限定を待ってる熱いファンもいる。麺一盃のラーメンはインパクト重視でなく、どこか"昔ながらのラーメン"という雰囲気がある。どこから始まって今に至るのか?私自身、全く情報を持っていない店なので、インタビューするのが楽しみだ。"麺一盃" 日吉店主にKRK直撃インタビュー!
- 出身は?
「宮崎県です。18歳まで宮崎でいて、高校を卒業して就職で福岡へ引っ越ししました。当時は建築家だったので建築関係の仕事をしていましたが、しばらくして『建築関係の仕事は自分には合ってないな~』って思うようになり退職。それから昔、2階建ての新幹線ってあったじゃないですか?その新幹線の食堂車でコックのアルバイトをしていました。それで『調理の仕事楽しいな!』って思うようになりました。」
- 飲食業に興味を持ったんですね。
「その頃、若かったのでお酒も大好きで『バーテンダーになりたいな』って夢もありました。それで中州のバーで働くようになりました。ある時、そこのマスターが『大阪で店するから、ちょっと一緒に来ないか?』って声かけてくれて、大阪へ来ることになりました。」
- 大阪での生活はどうでしたか?
「新地のバーで7年ほど働いていましたが、28歳になった頃に『毎日お酒を飲むのはしんどいな~』ってなってきて、何か夢を持とうと思いました。その頃、ラーメンが好きだったんです。小さい頃からラーメンは好きだったんですが、大阪に来てからラーメン食べ歩きに本格的に嵌まっていたんです。実は新地を辞める前、3~3ヶ月くらい福島区にあった"べらしお"で初のラーメン店アルバイトを経験しました。そこで日比野さん(現:鳥の鶏次店主)」と会って少し一緒に働いていました。」
- 当時好きだった店は?
「その頃、塚本に住んでいたので、十三の担担が好きでしたね~。他には天下一品、薩摩っ子、神虎とか。総大醤にもよく行ってましたね。出来た時に『大阪にも美味しい醤油ラーメン店が出来た!』と感じました。」
- かなりラーメンに嵌っていたんですね。
「ある時、北海道に旅行に行ったんですよ。そして"らーめんてつや"(公式HP)ってラーメン屋と出会ったんです。吹雪の時に行ったんですが、メッチャ美味しくて驚きました。それで北海道のラーメンにメッチャ興味を持つようになりました。それで大阪へ戻ってから、当時、なんばパークスにあった”"浪花麺だらけ"ってラーメンのテーマパークに行ったんですよ。そこに札幌の"山桜桃"(公式HP)が入っていたんです。食べてみて『あ~、やっぱり札幌ラーメン美味しいな!』って思いました。」
- 作る方にも興味を持ったんですね。
「すぐに水商売を辞めて、一人で札幌へ行くことにしました。大阪から山桜桃に電話して面接の予約をしていたんですが、札幌で面接に落ちたんですよ。それで『どうしようかな?』って困ってたら、"てつや"が求人募集していたんです。それで"てつや"で雇ってもらうことになりました。」
- てつやでは?
「正社員として働いて、途中から店を任せてもらうようになりました。休みなかったですね~。札幌にいたのに、その時期はどこにも行ってないですからね(笑)。それが10年前くらいです。その頃、高橋店長(現:麺屋高橋 店主)ともちょっと一緒に働かせてもらっていました。てつや出身の古川さん(現:MEN-EIJI店主)はその時はもう伝説の方で『凄い店長がいた』って語り継がれている存在でした。MEN-EIJI(公式HP)の昔の場所にあった店はオープンしてから僕はかなり通っていました。」
- 古川さんは札幌の新しい流れを作りましたよね。
「僕は古川さんから多くの影響を受けています。MEN-EIJIの昔の店はワインレッドのような色調の店内だったじゃないですか?それで麺一盃の店内の色もかなり真似しています(笑)。」
- その後、どういう流れに?
「その頃にてつやが東京に出店することになって、『僕が行きたいです!』って手を挙げました。結局、東京店には半年だけお世話になって、そしていろんな事情もあって"てつや"から離れることになりました。それから新地で働いてた店のマスターが『東京でお好み焼きの店を出すから手伝ってくれ』ってことで、お好み焼き屋でも半年働いていましたね。」
-その頃、 東京でラーメン食べ歩きもしていましたか?
「その時は嬉しくて、東京のラーメンをメッチャ食べてましたね。」
- 独立志望はいつから?
「札幌に行った時点で『いつかは(自分の店を)したい!』って思ってましたね。場所は決めてなかったです。」
MEN-EIJI 古川店主と記念写真!
- 東京から離れて?
「一回、宮崎へ帰って、九州のラーメン屋をいろいろ食べ歩いたりしてました。そして30歳になる頃に『もう1つの夢もしておこう』って思いました。」
- もう1つの夢?
「学生の頃、ツアーコンダクターをしたかったんですよね。全国廻れるって思って(笑)。それでちょっとやろうって思い、いろいろ探したら大阪の会社を見つけて大阪へ戻ってきました。でもラーメン屋もいつかしたいので、ラーメンを忘れないように週一で"麺や輝"(公式HP)で働かせてもらっていました。拓郎さん(現:麺や拓 店主)が店長の頃です。それからツアーコンダクターを2年間ほどして『もういいかな?』って思い、ラーメン屋をすることを決心しました。半年間、来来亭で働きながら、自分の店の準備をしていきました。」
麺一盃(2010年9月23日オープン)
- 自分のラーメン屋?
「とにかく『どこでもいいからオープンしよう』って思いました。どうせしばらくは暇だから、勉強しながら営業したらいいって。」
- 場所?
「塚本って決めていました。ラーメン屋が無いのは知っていたので。」
- 屋号の由来?
「『一杯っていいな~』って思ったんです。でも一杯でなく"一盃"と少し読みにくいものにしました。盃は昔から"絆"という意味があり、"結婚式の三三九度""兄弟の盃を交わす"など血縁関係でない人と関係を深めるときに使うものです。ラーメン鉢を盃に例えると一杯、一杯、感謝の気持ちを込め提供したいと思い命名しました。登録した屋号は"一盃"なんですが、後から『何か麺屋とか付けないとな』って思い、最終的に"麺一盃"に決めました。」
- オープンして?
「オープンは2010年9月ですね。麺は大弘軒って麺屋さんのを使っていました。洛二神さんや担担さんも使ってた麺屋さんです。最初の1か月はたくさんお客さんが来ましたね。オープン日で100杯出ましたから。出身店の名前は出してませんでしたが、麺や輝さんから花を頂きました。それで『輝グループか?』とかよく言われていましたね(笑)。」
- 順調なスタートだったんですね。
「1ヶ月ほどでオープン景気が終わってから、けっこう暇になりました。でも、それから雑誌とかテレビとかで紹介して頂いたり、らぁ祭(公式HP)に参加させてもらったりして知名度が上がりましたね。僕の思いは「とりあえずやってみよう」なので、イベントでも関西ラーメン向上委員会(公式HP)でも、とにかくやっていましたね。」
- 麺一盃のラーメン?
「当初は『あっさり清湯だけにしよう』って思ってたんですが、札幌時代の知り合いでオープン前に1週間ほど修行させてもらった栃木県の"麺 藏藏"(公式HP)で圧力寸胴を紹介してもらって、これだったら豚骨もできるなって思いました。それで『あっさりとこってり、両方出そう』って決めました。」
- 作りたかったラーメン?
「あっさりラーメンは東北っぽいの。東京にいた頃に"一番いちばん(Twitter)"って店が好きだったんですよね~。ああいうピロピロの麺が好きで。移転してからは数回しか行けてませんがね。他では多賀野さん(公式HP)とかも好きでしたね。ああいうイメージというか、もうちょっと魚介を効かせてって。イメージ的には喜多方とか白河とか。今の麺では縮れとか足らないんですが、今の店は狭いのでできないことが多いんです。ああいう大阪にありそうでない感じのラーメンがしたいです。僕は東京にいたから知ったんですが、大阪にはあまり無いですからね。」
- 限定ラーメン?
「以前は3ヶ月に1回って決めて、年4回してたんですよ。今はその頃に人気だったのを出していってるって感じですね。味噌は札幌の"すみれ"や"彩未"みたいに焙煎味噌をイメージしています。辛タンメンは"蒙古タンメン中本"(公式HP)をイメージしてる一杯です。」
- 自家製麺?
「大弘軒さんの麺も良かったんですが、いろんな事情もあり『自家製麺にしよう』って思いました。大和製麺の講習を受けたりして始めました。大成って製麺機なんですが、麺や拓さんでも使ってたので購入前に練習させてもらったりしてました。」
- 今後は?
「準備の最中なんですが、2号店を出したいなって考えています。味を分けたいんですよね。清湯と白湯を分けて専門店にしようって思っています。場所的な問題でここではつけ麺ができてないので、2号店で出したいです。今年の目標ですね。」
- 日吉店主の拘り?
「大阪の皆さんが食べたことないラーメンを作っていきたいですね。全国のラーメン、大阪の皆さんが知らない味を作っていければなって思っています。」