総合格闘技の名門"パンクラス"での数々の激闘を経て、遂に引退を決意した時、次の闘いの舞台として選んだのは"ラーメン"だった。心を奪われた"ラーメン荘 夢を語れ"のラーメンで人生が変わり、そして今は自分自身が多くの人に元気を与える側になっていく。食べた事がない人にとってはネット画像で見るだけでもまさに衝撃のラーメン。食べる前に拒否する人もいれば、何度も通うほどハマってしまう人もいる。熱烈なフリークが生まれる世界だ。
注文方法も独特だし、店の雰囲気がどこにも無い世界観を作り出している。「日本に元気を!」と奮闘する代表とゆっくりと話す機会を作っていただいた。初対面だったが、とにかく熱い気持ちがガンガンと伝わってくる男。"ラーメン荘 歴史を刻め"藤原代表にKRK直撃インタビュー!
- 出身?
「大阪です。大阪府大阪市。」
- 格闘技はいつから?
「小さい頃から格闘技の世界に携わっていました。幼稚園の頃は天満の正道会館 総本部に通っていて、佐竹さんや角田さんに教わっていました。中学校で柔道部、そして高校の頃にやんちゃな感じになり、親父が『お前は格闘技をしろ!』ってなって、本格的に格闘技の世界へ。『絶対にプロになってやる!』って決めていて、実際、プロになり、パンクラス(公式HP)のランキング1位まで行きました。しかしその頃でも『自分は格闘技で食べていける』とは思っていなかったですね。」
- ラーメンは?
「ずっと好きだったのがラーメンでした。ハマるきっかけだったのは天神旗さん(公式HP)。当時、大鶴さん(天神旗 店主)が現場に立ってバリバリにしてる頃でしたね。『メッチャ怖そうな人がやってるわ~』とか思ってて(笑)、食べたら『美味いな。なんやこの臭いの美味いな』って。それからいろんなラーメン屋に食べに行くようになっていきました。先輩のラーメン好きな人にいろいろ紹介してもらって、一時期、つけ麺ばかり食べてた時期もありました。つけ麺を食べるためだけに地方まで行ったりして。そんな中で出会ったのが"ラーメン荘 夢を語れ(公式twitter)"だったんですよ。」
- どんな出会い?
「先輩が「面白いラーメン屋があるから一回行ってみよう」って誘ってくれて。当時は二郎系って言葉も初めて聞いたくらいでしたが、衝撃受けましたね。クッソ不味いし、量は多いし、『二度と行くか』って思いました。帰りの車の中で『僕は二度と行かないです。気持ち悪いです。』って言ってましたからね(笑)。で、その先輩が『だいたい最初の人はそう言うから、二回目行こう。頼むから二回目行ってみよう』って。それで無理やり連れていかれて、食べたら『前回より悪くないな。食べれるな』って(笑)。その時は僕の中でこのラーメンが想定されていたから。『食べれるな~』って。で、3回目に『美味いな~』ってなって、それからメチャクチャ嵌まってしまって、一人で電車乗り継いで大阪から通うようになりました。」
- 他の二郎系も試してみた?
「その当時はまだ関西にはあまり無くて、格闘技の試合で東京に行く度に"二郎"か、"二郎系の店"で食べていたんです。しかし"夢を語れ"に心を奪われてしまっていたので、どうしてもベースが夢を語れの味になっていたので、夢を語れじゃないって認めたくない気持ちがありましたね。」
- 試合に影響しなかった?
「選手としては絶対ダメな系統なので、だからたまの楽しみでしたね。減量期間には食べれなくなるし。僕は試合前日に計量が終わってOKになった瞬間にラーメン屋に走るって感じでしたから。先輩方から『お前はアホか?』って言われて、計量明けには『こういうものを食べないとあかん』と説明を受けるけど、僕はラーメンを食べるって(笑)。東京に富士丸って店があって"夢を語れ"の西岡さんが修行した店なんですが、そこに食べに行った時に麺半分で注文したのに、麺が丼からテンコ盛りになって出てきて食べきれなくなって撃沈して、翌日の試合でKO負けしたこともあります(笑)。」
- プロレスラー?
「業界的にはパンクラスはプロレスラー扱いらしくて、僕は"プロレスラー名鑑"とかにも載っていたんですよ(笑)。僕は自分をプロレスラーと思ったことはないんですけど、友達から『お前、プロレスラー名鑑に載ってるぞ』って言われて、それで『俺はプロレスラーじゃない!』と言っていましたね。(笑)」
- 将来への不安?
「僕は『将来、格闘技では食べていけないだろうな』と思っていて、チャンピオンになってもファイトマネーもそれほどにはならないし、人生はこの先ずっと長いねんから50~60歳まで格闘技もできないので、『ラーメン屋をしたいな』と20歳頃から思っていました。19歳の時にプロデビューした時にファイトマネーがメッチャ安くて、『あれ?プロってこんなもんなん?』ってガッカリして、将来に不安を持ったんです。」
- そして"夢を語れ"に?
「24歳の時かな?僕はもう『ラーメン屋さんをしたい!』、『夢を語れをしたい!』と思っていました。当時、"麺や輝 中津店(公式HP)"でバイトしてたんです。将来ラーメン屋をしたいから勉強したいって。一回、『輝に入らへんか?』って誘われたことがあったんです。もちろん輝は美味しいし、味で言ったら"夢を語れ"より美味しいと思ってるんですよ。でも僕が衝撃を受けたのは『夢を語れのラーメン』だったんです。気持ちの面ですね。あんなエンターテイメント性を感じるビックリさせるようなラーメンは他にないなって思って。僕は今でも一番美味しい店で自分の店の名前は絶対に言わないんですよ。でも一番衝撃を受ける店は『俺の店やで』って言うんです。」
-ターニングポイント?
「ある日、バイクの事故で怪我をして輝を休んだことがあったんですよ。何もすることがなかった時に突然、頭の中にパーンって何かが下りてきて、『今日や~』ってなって怪我してる足をひきづりながら、京阪乗って、叡山電鉄乗って一乗寺の"夢を語れ"へ行って、突然、『すみませ~ん、すみませ~ん。いきなりすみません。弟子にしてください!』って言ったんですよ。西岡さん(当時:夢を語れ 店主)に。(笑)」
- どんな反応でしたか?
「ずっと食べるだけで通ってたんですが僕の顔を全く憶えてもらってなくて、完全に初対面でしたね。西岡さんが『自分びっくりするわ~。じゃあ、今日から働きや!』って言ってくれたんです(笑)。ちょうど"夢を語れ"が長期休養明け。もう一度、一からやり直しますよって時期でした。その時に格闘技してるとか、"麺や輝"のバイトとかを話して、『10月までに全て清算します。10月までにコッチに引っ越してきます。だから10月1日から弟子としてお願いします!それまでアルバイトとしてお願いします。』ってお願いしました。それからまずは週1~2回ペースでアルバイトとして働き始めました。」
- 格闘技の方は?
「"夢を語れ"に入る前に、引退試合をしました。教わっていた師匠以外には誰にも引退試合って言わず、普通の試合としてこなして、試合後のリング上で『引退します。ラーメン屋をします!』と言いました。そしたらファンから失笑がおきましたけどね(苦笑)。それで怒ってしまって、『立派な職業やろ!』ってファンに向かって叫んでましたね(笑)。その試合には"夢を語れ"のみんなが全店舗休業して応援に来てくれました。僕はいつ引退しても悔いが残ると思ってたので、あとは引き際だけやな。どのタイミングで引退するかってのがテーマだった。『ベストは無いわ』と思っていました。」
- 西岡さんについて?
「優しさと厳しさが混在してる人。僕の中では凄い気さくで身近な存在なんですけど、追いつけない存在。身近なカリスマって感じですね。僕は西岡さんに関しては語るすべが無いっていうか、底が見えないって感じです。1つ言えるのは無理難題を平気で言ってくる人(笑)。それに対して嫌とか無理とか言うと、メッチャ怒られる。例えば『3日で和え麺考えて!テーマは春で!』っとか突然電話で言われたり。断ったら怒られるので、僕は『はい。分かりました』って言って電話を切ってから、『くっそ~、あのボケ。ホンマ絶対にしばいたるからな』って(笑)。それでも『与えられたことだから絶対にこなしてやる』って、ほとんど寝ずにしていましたね。営業もしてるし、仕込みもやってるので、全て終わってから『限定を考えないと』ってことでしたから。当時はクックパッドとか無かったですし。僕、クックパッド大好きなんですよ(笑)。」
- すぐに店長に?
「"夢を語れ"に入って3ヶ月ほどで店長を任せられました。それから2号店の"地球規模で考えろ(京都市伏見区)"がオープンし、両店舗の統括をするようになり、商品開発もするようになっていきました。両店舗の統括なんてメッチャ大変なんですが、『はい。分かりました!』って言うしかなかったから(笑)。」
- そして"歴史を刻め"へ?
「とにかく僕は入った時から『この味を大阪で出したいんです。5年以内に100パーセント独立します!』と言っていたんです。何度も言い続けていましたね。西岡さんからは『この会社をデカくしていくから、副社長になってや』と言われていたんですが、『結構です』と断っていました。『絶対に大阪で自分でしたいんです!』と言い続けていると、西岡さんから『じゃあ、大阪で出そうか』と話が出てきて、将来的にそれを買わせてくれるって話になりました。」
- 屋号は?
「西岡さんに『大ちゃん(藤原代表)にピッタリの屋号を考えるから、ちょっと待って!』って言われてて、ある時、『下りてきた~。当ててみて。伝説的な感じや』って聞かれたので、『歴史に名を刻めですか?』と答えると、『鳥肌たった~。惜しい。ちょっと違う。歴史を刻めや、大ちゃんにピッタリやろ?』って。それで屋号は決まりました。」
ラーメン荘 歴史を刻め (2010年8月1日オープン)
- 場所は?
「ターゲットは大学生。大阪中の大学を自分で廻りましたね。ど田舎の大学とかも行きましたよ。この場所はね、一回、夢を語れのみんなで『探しに行こう!』って日があって、『大学、どこターゲットにする?』、『関学!』ってことになり、それなら『関大生が多いのは、どこ?』と考えて淡路周辺だということが分かり、みんなで淡路駅に来ました。そしてチーム分けして『不動産に行く人』、『歩いて探す人』って散らばって動いたんです。その中でこの場所まで歩いてきたのが一人いて、『良い物件を見つけました!』って知らせてきました。『どんな物件?』と聞いたら、『上に住めるし、並ぶ場所あります。周囲にコインパーキングもあるし、角を曲がったら大地って居酒屋がありました!』って。僕、大地って名前なので(笑)。それで西岡さんと一緒に確認しに来たら、西岡さんが『うわ~、鳥肌たったわ。大ちゃんどう?』って言ってきたので、僕は『そっ、、そうっすね~』って。心の中では『無理やろ~。人が誰も通ってないやんけ~』と思っていたんですが(笑)。でも西岡さんが『大ちゃん見えるで~。高架下に30~40人の列が並んでるのが見えるで~』って。僕は『そうっすね~』としか言えなかったですね(笑)。」
- 近隣の住民とは?
「最初はテンションの上がった行列客の声とかで苦情もあったんですが、ある時から『治安が良くなった』と感謝されるようになりました。以前は時々、事件もあった地域だったようですが、ウチができて人の流れが変わったので、治安が良くなったようです。」
- 歴史を刻めのラーメン?
「僕がやりたかったことはいっぱいあって。乳化が好きだったんですよね。乳化したスープでの二郎系をしたかったんです。非乳化も好きだったんですが、『インパクトを出すためには乳化やろ』って思っていました。『お客さんが喜んでくれるラーメンってどんなやろ?』って考えていて。しかしコッテコテのを出してたら残す人が多くて、『重た過ぎるわ!どんなスープやねん』とか言われましたね(笑)。それで乳化を抑えて、微乳化くらいにして、醤油もしっかり効くようにしたら評判も良くなっていった。」
- お客さんは?
「営業が安定するまでに3ヶ月くらいかかりましたね。最初は歩いてる人さえあまりいない場所だったので、周辺に営業で出ていって、歩いてる人を見つけたら『あそこでラーメン屋を始めたんですが、どうですか?』って自分たちで宣伝していました。」
- 元気な接客?
「来てもらえたお客さんにとにかくもう一回来てもらえるようにするには『どうしたらいいかな?』って考えて、ラーメンは美味しいのが当たり前だから、『気持ちいい接客をしよう!』って。『あの店に行ったら元気になれるな!あの店員さん元気だな!』とか、そういう店作りをしようって思いました。それから口コミで拡がっていって、3ヶ月くらい経った時に初めて行列ができました。その時は感動で泣いてしまいました。それから大行列ができてきて。嬉しかったですね~。」
- 仲間?
「僕は基本的に同業者をライバルとか考えていなくて、『一緒に盛り上げれたらな』って思っています。それで淡路の縁乃助商店の中川と初めて会った時に『なんかええ感じやな。顔の系統も同じ感じだし(笑)』って思い、飲みに行って同じ年って分かって、それから凄く仲良くなりましたね。彼が人脈を拡げるのが好きで、その人脈に僕が加わっていってるって感じですね。一番仲が良いのが青二犀の森山と縁乃助商店の中川ですね。。この3人でわいわいラーメンの話をしてる時が一番楽しいんです。」
- 店舗展開?
「僕はね、面倒くさがりで店舗展開はあまり考えていなかったんですよ。ウチに入ってくる人って『一緒にやりたい』じゃなくて、『独立したいです!』って人がほとんど。『じゃあ、協力してあげないとな』って感じで、暖簾分けしたりとかって流れになっています。でも最近は『ウチに一生残っていく』って人も増えてきたので、その子達を食わせていくためには逆にこっちから積極的に店舗展開していかなあかんなって思うようになりました。違う系統の店を出すことも含めていろいろ考えています。」
- スタッフは?
「スタッフ集めで困ったことはないですね。募集はしないんです。店の常連さんとかに声をかけます。僕は一番のスタッフというのは常連さんだと思っています。店のことが好き、このラーメンが好き。そういう人がするべきって。お金目的じゃなくて。うちは社員さんも全員、常連さん。常連さんに『やらへん?』って声をかけるんです。大概ね、『実はやりたかったです』って人が常連さんには多いんですよね。」
- 今後やりたいことは?
「やりたいことの1つは、簡潔化した二郎系。今は学生さん向けだけど、次はサラリーマンさん向けの二郎系をやりたい。そして最終的には『プロレス居酒屋』がしてみたい。格闘技じゃなくて、プロレス居酒屋。理由は格闘技って勝ち負けだけの非情な世界だけど、プロレスは勝ち負けを超えたエンターテイメントなのでお客さんが元気になれるんです。僕の1つのキーワードは『元気』やと思ってるんで、プロレス居酒屋を元気の発信地としていきたい。店内でプロレスの試合を流したり、コスプレをしたスタッフがいたり。メニュー名も全部プロレスの技の名前で説明も全く無しで(笑)。中央にリングを設置していて、リングの上で食事ができるとか。社会貢献にも生かしたくて、鬱やパニック症の人がマスクをつけて働けるような場にしたり。話すのが無理なら、メキシコ人になりきってもらって日本語を話さないとかで。それでマスクを外して素顔で働けるようになったら卒業って。『社会に出て、何かあったらまた戻ってこいよ』って。そういのがやりたい。僕が40歳になった頃に実現したい夢です。絶対にやってやるって思っています。」
- 最大の夢?
「僕は日本を元気にしたい。元気の発信基地をいっぱい作っていきたいってのが最大の夢なので、海外には全く興味が無い。日本、なんか元気ないじゃないですか。この店に来た時だけでも元気になってもらいたい。ラーメンってのは付加価値がないと駄目だと思っている。ウチのラーメンの付加価値は元気。うるさいくらいですから。上で休憩してても寝れないくらいですから(笑)。」
<店舗情報>
ラーメン荘 歴史を刻め
藤原代表Twitter:https://twitter.com/rekishidaichi
公式Twitter:https://twitter.com/rekishi_honten
公式ブログ:http://blog.livedoor.jp/yumedaichi/
(取材・文・写真 KRK 平成28年3月)