ラーメン消費量日本一を誇る山形県。関西に住む我々には遠い所の話に感じるが、身近に山形を強く意識させてくれるラーメン店がある。豊中市にある烈火だ。
山形でラーメン屋を営んでいた方が大阪に来て開業。山形辛みそ、山形ひっぱり混ぜそば、、山形の特色あるご当地系を独自にアレンジした唯一無二のメニューが揃っていて、ラーメンブームに沸く関西ラーメンシーンでも異彩を放っている。他では味わえない看板メニューを持った店は強い。2号店もオープンし、ますます勢いが増してる今、山形~大阪を渡り歩いてきた店主に話を聞きたくなった。"烈火"浮島店主にKRK直撃インタビュー!
-出身は?
「大阪です。」
-ラーメンはいつ頃から?
「漠然と、子供の頃から『ラーメン屋さんをしたい』って気持ちがありました。ウチの母親が食べ物が好きで、その中でもラーメンが特に好きだったので、インスタントから中華料理屋のラーメンから何でも。僕が小さい頃はラーメン屋さんってのはあんまり無かったです。で、ちょっと美味しいなって噂を聞けば連れていってくれていました。最初は中華料理屋さん、珉珉とか。ラーメン屋さんらしいラーメン屋さんに初めて行ったのは古潭ラーメン(公式HP)でしたね。昔、なんばウォークにあった頃、小学校の時に初めて連れていってくれました。それまでは僕は味噌ラーメンがすごく好きだったんですが、その店ではおかんが『ここでは醤油ラーメンを食べなさい』って(笑)。それで食べて、子供ながらも衝撃を受けた。『メッチャ美味い!』って。それがラーメンを本当に大好きになったきっかけでしたね。それからしばらくは古潭ラーメンばっかり。時々、他の店、薩摩っ子、鶴橋の二両半、布施の天下第一とか連れて行ってくれてました。」
- ラーメン屋への憧れが芽生える?
「その頃から『ラーメン屋さんになりたいな』と強く思い始めていました。しかし『ラーメン屋さんはしんどい、長時間労働だから』ってまだ中学生だったのに既に考えていました(笑)。高校の時には誰に教わるでもなく、醤油のタレを作りたくて、豚のバラの生肉を買ってきて、醤油で浸して、勘で作ったりしていたんです。ちょっと作ってみたいなと思っていたんですよね。ウチのおかんがとても料理を作るのが好きだったので、その影響が大きいです。食べ物に対する偏見がなくて、インタスタントでもお店のラーメンでも好きでした。」
-その後は?
「高校に進学してから、ラーメンへ気持ちが止まってしまいましたね。音楽をし始めたんです。バンドの雑誌でベース募集を見て応募して、そこのバンドに入って高校の間はずっとバンドをしていた。ジャンルはメタルです。その後、東京まで行ったりしてデモテープを作ったり、ライブハウスでしてちょっとギャラもらったり。」
-卒業してからは?
「高校を卒業後は就職しました。おもちゃ屋さんです。働きながらバンドもしていましたね。」
-ラーメンの方は?
「バンドしながらでもラーメン食べるのは好きでしたよ。美味しいって噂を聞いたら行ったりしていました。で、それでね。ハズレだったらすごいショックで、それが嫌で自分が好きな店ばっかりに行くようになり、もう新しい店に行かなくなっていきましたね。古潭、天下第一、薩摩っ子、横綱とかばっかりでしたね。個人ラーメン店ってあんまり無い時代でしたから。その頃は醤油の清湯とかあまり好きでなく、味噌とか豚骨とかばかり食べていました。ある時、友達に連れて行かれて初めて天下一品に行った時、衝撃でしたね。2杯食べましたから(笑)。上新庄にあった天下一品!その頃はインスタントラーメンも含めたら、毎日ラーメン食べてました。」
山形へ
- 転機?
「それから数回の転職を得て、ある時、山形の女性と出会いました。しばらくして、その女性(前の嫁)の親が『山形へ来て住んでくれない?』と言ってきました。当時の会社の友人も『行ってこい』と言ってくれたので、山形へ引っ越すことにしました。当時は山形が日本のラーメン消費量日本一とか全く知らなかったです。山形でもラーメンは相変わらず食べていて、どこ行っても満席だし、『ラーメン屋さん多いな~』って。僕はラーメンは夜に食べるってイメージだったんですが、山形では数人で何食べるって話になると、ラーメンになる。『昼、何食べたの?』と聞くと、ラーメンって(笑)。」
-山形のラーメンは?
「その頃はまだ豚骨とかに比べたら清湯が物足りなくて、辛みそとかを好んで食べていました。ある時、友人が『山形の四天王やで』って吉野屋食堂に連れていってくれた。そこで食べた醤油清湯が『なんて美味しいんや!』と衝撃でした。それで清湯に目覚めましたね。いい言葉か分かりませんが、吉野屋食堂の味が食べ慣れていたカップヌードルを本物にしたような味だった。『カップヌードルの本物版や!』って(笑)。出汁も美味い、メンマやチャーシューも美味い。もう大好きでしたね。それから清湯ばっかり食べるようになった。35歳の頃です。それから山形の一通りの店を廻っていましたね。ラーメン好きの友達がいろいろ教えてくれました。」
-山形での生活は?
「山形では運送屋で働いてたんですが、最初の頃は山形の生活に馴染めない日々が続いていました。文化の違いとか、いろいろ大阪との違いに戸惑っていましたね。で、ある時、嫁に『自分で店をさせてくれ』と言いました。最初は運送屋で働きながら、週末だけ小さい場所を借りて「たこ焼き屋」をしたり、ワンコインバーをしたり。でもワンコインバーはイマイチだったけど、たこ焼き屋は好評で話題にもなって、それで『もっと大阪に特化した店にしよう』ってことで、自分で改装してお好み焼きなど出す『鉄板焼き屋』を始めました。店は人気出てきて順調でしたね。そして山形での6年目の頃に離婚することになりました。
離婚してからは『もう大阪へ帰ろうかな』と考えるようになり、大阪で世話になっていた先輩にも『戻っておいで』と言われていました。でも山形で仲が良かった鈴木って友人が突然に『大阪に帰るんだったら、ちょっと山形でラーメン屋をしてみたら?』と言い出した。『こっちでラーメン屋が当たったら大きいからやってみたら?』って。まさかそんなことを言われると思わなかったので、とても悩みましたね。それで大阪の先輩に相談したら『帰ってきてもいいけど、ただ、帰ってきて後悔しなや』って。『あの時、山形でラーメン屋をしたかったなって言うなよ』って。その一言で決心しました。ラーメン屋をやってみようって。」
ラーメン屋を始める
- ラーメン屋開業に向けて、どう動いたんですか?
「本屋でラーメン作りの教本とか買って、自己流で本に載ってるラーメン屋さんを真似て試作を繰り返していました。それから自分的に納得いくものができ、当時の友人達に試食をしてもらいました。魚介豚骨のラーメンでしたね。自分では自信があったんですが、皆の反応は『駄目だ』って。山形の人たちは豚骨臭を嫌うんです。インスタントの豚骨ラーメンでも臭くて食べれないって言うくらいです。それで『どうしようかな?』って、また試作の繰り返しでした。」
-店が決まって?
「まだ納得いくものができてなかったんですが、自分のラーメン店をする店舗が決まりました。鉄板焼き屋を閉める最終日に久しぶりに来たお客さんが『今から何をするんですか?』って聞くので、『ラーメン屋さんをするんです。でも、まだちょっと納得いくものができてない』と言うと、その人が『ウチの親父の実家がラーメン屋をしています。親父も働いてたから教えてくれますよ』って。それからその人の親父さんの店で3ヶ月ほど教えてもらいました。鶏ガラのスープの取り方とか、基本を教わりました。魚の合わせ方は独学です。マルセイ醤油も紹介してくれました。一般では販売してない醤油ですね。」
-そしてオープンですね。
「一応、オープンしたんですが、大変だったんです。屋号は”八八(はちや)ラーメン”って屋号でした。末広がり、インパクトもあるし、響きもいいかなってことで。新聞の折り込み広告で、オープン3日間は『先着100名様 中華そば88円!』と出しました。11時8分にオープンしました。すると、オープン前に凄い大行列ができてビックりしました。まさか、そんなに来ると思ってなかったので焦りましたね。ラーメン屋で働いたこともないし、オペレーションも全然だし、本当に焦りました。何も知らない頃でしたからね。そして初日の最後の一杯を自分で食べたら、まずいまずい。かん水の臭いも凄いし、とにかくまずい。それでいろいろ修正して、ちょっとずつ問題点を改善していきました。」
-お客様の反応は?
「山形の人は見守るというか温かい。成長していくのは見ていてくれました。関西のように初訪問からガンガンと批判する人とかはいなくて、とにかく温かかったですね。」
-順調だったんですね。
「お客さんがガクンって減った時期があったが、テレビで紹介してもらってお客様も順調に増えていきました。それからテレビの取材もいろいろあったりで、上手く繋がっていきましたね。」
-当時のメニューは?
「中華そば、四種の魚介醤油ラーメン、辛味噌ラーメン、野菜味噌ラーメンとか。野菜味噌は炒めた野菜をどっさり乗せて好評でしたよ。それと八八ラーメンってのも好評でしたね、牛スジと牛蒡を絡めて炒めたのをラーメンの上にトッピングして、そこに辛味噌に刻んだニラを混ぜたのをつけて、それが美味かった。(笑)。こういう細かいところはおかんの影響ですね(笑)。」
山形を離れて、大阪へ戻ることに
-突然、閉店することに?
「ある時、おかんが突然倒れて、急に大阪へ帰ることになりました。まだラーメン屋をして3年目の頃でした。おかんの様子を見てると、もう山形のラーメン屋は閉めて、大阪へ戻ってこようと思いました。おかんがどうなるか分からなかったですから。今から5年前くらい前の話です。」
-大阪へ帰ってきて?
「とりあえず友人の家に居候しながら、『どうしようかな?』と半年間くらい考えていました。運送屋はもうしたくないなって思ってた時、たまたま、ある物件の情報が入ってきました。昔の烈火があった場所です。条件が良かったので、その大家さんと面談してみると合格をもらえました。それで自分の生活のためにラーメン屋を再びすることを決心しました。」
烈火(2011年5月11日オープン)
-烈火って屋号は?
「いろいろ候補があったんですが、烈火のごとく。辛いのとか勢いとかで烈火に決めました。山形で激辛地獄つけ麺ってのをしていたんですよ。それが今の烈火つけ麺です。山形時代に自分で作って自分でハマってしまって、そればっかり食べてた時期があった。山形時代にいろいろ学んだことの1つが、メニューは少ない方がいい。一人でするわけだから。辛いラーメンだけ。『烈火ラーメンだけでしよう』って決めました。しかし庄内の町を歩いてみるとお年寄りも多かったので、中華そばを加えて2本立てでオープンしました。」
-反応はどうでしたか?
「全然お客さんが来なかったですね。それで2週間くらいで『これは2本立てはやめとこう』って思って、山形でしてたメニューをドーンって一気に加えました。それでも全然暇だったんですが、お客さんとよく話していて、それから口コミで山形系ってのが拡がっていきましたね。四種の魚介醤油がよく出るようになっていきました。」
-ターニングポイント?
「きっかけになったのは冷たいラーメンです。山形のご当地系の1つですね。ラーメンのブログしてるって方が『イベントをしています。それで山形の冷たいラーメンを出してください。』と頼んできました。冷たいラーメンって山形ではどこでもしてるんですが、あんまりね、山形の人は好んで食べないんですよ。夏に『ちょっと食べとこか?』って程度なんですよ。山形では夏はおそば屋さんに行くことが多いから。それで最初は断ったんです。『そんなビックリするほど美味しくないから』って。それでもいいからと言うので出すことにしました。
最初は鶏ガラだけで作ってたんですが、四種の魚介醤油が評判良かったのもあるので、イベント始まる前日に魚介を加えました。すると、とても評判が良くて、"あまから手帳"の取材が来たり、有名グルメブログでも紹介されたりでお客様が急激に増えてきました。"辛いの"から"山形売り"にシフトチェンジしていきましたね。それから順調にお客様も増えてきたので、大家さんが『移転しないか?』と言ってくれて、近くの大きな店に移転しました。」
2013年6月25日 移転オープン
-人気の"ひっぱり混ぜそば"誕生秘話?
「まぜそばブームの影響もあったし、山形のひっぱりうどんですね。『ラーメンに納豆』、『麺に納豆』ってのが僕の中では山形に行くまでは無かった。山形に行ったばかりの頃、あるラーメン屋さんで納豆味噌ラーメンってのがあった。納豆は好きだったけど、『いや無いわ。納豆っておかしいんちがうん?』って(笑)。初めて"修ちゃんラーメン"って店で納豆味噌を食べてみると、衝撃が走りましたね。納豆のネバネバが麺に絡んで、もう嵌まってしまって。しばらく、ずっとそればっかり食べてましたね(笑)。その店のも元々はひっぱりうどんから来てる。山形の家庭料理ですね。基本はそうめんみたいな食べ方です。そばつゆがあって、納豆を入れて、薬味、サバを入れて混ぜて、そこに浸けて食べるってのがひっぱりうどんの基本。それをまぜそばみたいにして食べる食べ方もある。それをヒントに"山形ひっぱり混ぜそば"が誕生しました。だいぶ悩みましたけどね。大阪って納豆嫌いな人が多いし。しかし、ウチは山形の味なので出しました。」
-大事にしてること?
「やっぱりね、やっぱり山形ですね。山形ラーメンってのを大事にして拘っていきたい。山形自体、変わってきてるし、新しいのが加わってきてるけど、その中で昔からの老舗も頑張ってる。僕は山形の食文化を伝えていきたい。ラーメンに対する考え方とかも大事にしていきたい。」