ウィング麺?サンダー麺!? 刺激的な名前の麺が話題になっている。一体どんな形状で何に使う麺なんだ? 更に驚いたのは、この麺を生み出しているのが昭和6年創業の老舗製麺所だということだ。ほんの数年前は京都や滋賀でチラホラと名前を聞く程度だったが、いまや東京や札幌の名店、そして山形の話題の新店にまで店内に麺屋棣鄂棣鄂の袋がドーンと飾ってある。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのこのカリスマ製麺所の現場を牽引している男は今、何を思い、何を語ってくれるんだろうか?「麺屋棣鄂」知見工場長にKRK直撃インタビュー。
─ 今で何代目ですか?
「昭和6年創業で、祖父の頃から今で3代目になります。当時、山梨県からお爺ちゃんがある事情があって京都へ移ってきました。そして京都で生活していると東京で流行っていたラーメン(支那そば)が全然ないことに気付き、『これは商売になるんじゃないか?』ということで製麺所を始めたと聞いています。最初は作り方が何も分からなくて見よう見まねでやっていて、その頃、うどん屋さんとかに支那そばの作り方を教え歩いて、『ラーメンを売ってくれ』と頼んでいたようです。」
─会社名の由来?
「中国の故事に『棣鄂の情』というのがあって、『兄弟、仲間たちが仲良く集まる』という意味があります。」
─ 継ぐことは意識していましたか?
「兄もそうだと思うけど、僕は全く継ぐ気がなかったんです。親戚も入っていたし。」
─ラーメンは好きだったんですか?
「僕はラーメンを食べることにもあんまり関心が無かったんです。ラーメンをちゃんと食べたのは高校の頃、友達に誘われたのが初めてかな?京都にずっと住んでいたのに、新福菜館や第一旭とか、高校3年の頃に初めて食べましたね。」
─ 当時、知見さんがしたかった仕事は?
「自分で仕事をしたい。何かをしたいって考えて見つけたのが放送作家という仕事でした。人を笑わせるのが好きだったので、お笑いの番組を考える仕事がしたいと思っていました。専門学校へ1年間通い、それからある放送作家の先生に弟子入りさせて頂き事務所へ入りました。最初に憧れを持っていたのがダウンタウンさん。一緒にお仕事をさせてもらってたのがぜんじろうさん、そしてたかじんさん。2年ほどさせてもらっていたが、結局、泣かず飛ばずでした。放送作家はいっぱいいますからね。」
─どういう経緯で棣鄂に入ることに?
「数年前から既に兄貴が棣鄂で働き始めていまして、その兄貴からある日、急に電話があり『会社が危ない。従業員に給料が払えない』って(苦笑)。僕は親に専門学校まで行かせてもらっていて、金持ちでないにしろ(ウチは)貧乏でないと思っていたので、そんな電話が来てとてもビックリしましたね。それで実情を聞いてみると、給料が払えない。一番ショッキングだったのが、親父が見たこと無い財布を出してきて、その中に伊藤博文の時の千円札や聖徳太子の時の1万円札とかの新札が入っていて、それまでも使おうとしていたことですね。コレクションとして大事に取っておいたお札ですから。その時はもう『いよいよだな』と凄く不安になりました。それで僕も手伝うことを決心しました。それが2002年頃の話です。」
─その頃の京都のラーメン事情は?
「その頃は高安さん、いいちよさん、あかつきさんが流行っていて、ちょっと落ち着いてきた頃ですね。」
─ 棣鄂に入ってからは?
「親父しか麺の作り方を知らなかったので、まずは作り方を教わりました。一生懸命でしたね。その頃はうどん、そば、焼きそば、生中華麺2種類でした。」
─ 作り方を教わってから?
「とりあえず『売れるためにどうしたらいいか?』をいろいろ考えていました。そんなもがき苦しんでいる時に現われたのが、しゃかりきさんでした。千本丸太町のウチの昔の工場近くにラーメン屋さんがオープンしまして、それがしゃかりきさんでした。その頃は新店に営業に行くたびに、大手のA社さんが既に入っていてなかなか新規契約を取るのが難しかった。それでしゃかりきさんへ営業に行って名刺渡したら、その時に梶 店主(しゃかりき)から『ちょうどいいわ。つけ麺の麺を探しているんや。A社さんに言ったらつけ麺なんて京都で流行らへんと言われた。麺屋さんならつけ麺の麺を考えてよ!』と言って頂きました。
僕には流行るとか、流行らないとか選択肢は無く、『もうやるしかない』という気持ちでしたね。そしていろんなことをして、なんとかつけ麺の麺を作り上げました。つけ麺を知るために関東にも行きましたね。当時、雑誌"dancyu"で六厘舎さんや開花楼さんの麺の特集があって、見たこと無い太い麺にショックを受けたのをよく憶えています。」
─ それからどう動いていったんですか?
「しゃかりきさんとのやりとり、あとはラーメンフリークさんのネット上での感想も参考にしていました。辛口なコメントを頂いたりね(笑)。つけ麺の麺を使ってもらい始めて、『じゃあ、ラーメンの麺も』って話をしたら、『ラーメンはA社の麺を使っておきたい』とのこと。なぜならA社さんは京都市内のいろんなお店に麺を卸しているから情報が豊富と言われていました。その時に『あっ、美味しい麺を作っているだけじゃ駄目なんだ』と思いました。それで僕は『業界の井上公造になろう!』と決心しました。ちゃんと他のラーメン屋さん、業界全体の知識を持っておこうってことです。それからは一生懸命、ラーメン食べ歩きをしていましたね。」
─オーダー麺のきっかけは?
「当時は『オーダーしてもらって麺を作りたい』ということじゃなく、『買ってくれるなら何でもやります』って感じでしていました。それから、あきひでさんにも使ってもらったり、しゃかりきさんも使い続けてくれていたけどまだまだでしたね。新店へ営業に行ってもことごとく買ってもらえない日々が続いていました。
例えば老舗の大栄ラーメンさんなら、もう『大栄さんのスープにはこの麺』と常連さんの中では決まってしまっているんですよね。それがもしウチの麺を使うことによって、多くの方に愛されているそのバランスが変わってしまっても駄目なんですよ。そういう理由で京都ラーメンの業界を考えた時に『売るところがないな〜』と頭を抱えて悩んでいましたね。『なんとか、なんとか』ってもがき苦しんでいた頃です。」
─どんなことに取り組んでいましたか?
「当時、"関西一週間"という雑誌に載っていた業界で有名な方たちとお知り合いになれるようにとか考えていましたね。例えば、知り合いのラーメン屋さんに『某誌の取材が来る』と聞いたら、僕も現場に行ってそこで業界の有名な方と知り合いになるようにしていました。そうやって業界内での付き合いを拡げる努力をしていました。顔を憶えてもらうと、その付き合いから仕事をもらえるようになってきました。会社のみんなで一丸となって営業を頑張っていました。それから徐々にですがウチの知名度も上がってきました。悪く言われることも多かったですが、そういうのもお客様の意見として参考にさせてもらっていました。」
─その頃、大阪には?
「大阪へウチの麺が行くようになるのには時間がかかりましたね。大阪の一番最初は、厳密にいえばあす流さんです。ある時、きんせい中村さん(彩色ラーメンきんせい)から『麺を探している人がいる』と紹介してもらいました。大阪の高槻にウチの麺が行くってだけで嬉しかったです。」
─関西以外は?
「いや、当時は全く考えていなかったです。東京や札幌の知り合いの方の紹介で、やまぐちさん(東京)、まるはさん(札幌)でウチの麺を使ってもらったりしていましたが、まずは関西でしっかり商売をしたいと思っていました。その頃は京都でもいろいろやってきて、『頑張ったら何でもできるんじゃないか?』と考えるようになってきていました。」
─麺の研究は?
「暇でしたので、『こんなんが欲しい』、『あんな粒々の麺が出た』とか聞いたら、全部作っていましたね。3ヶ月に1回は東京に行って、麺の研究も続けていました。知り合いの方に紹介してもらって、関東のフリークさんともお付き合いをさせてもらうようになっていきました。」
─自信がついてきたのは?
「最初は棣鄂という名前だけが先行してて、『あそこ凄いな』、『活躍してるな』とか思われていたようですが、実際に『あ~、よかった。なんとか腰を据えて商売が出来るわ』と思ったのは、2010~2011年頃でしたね。それまでは暇な時期もあったし、ドーンと売り上げが落ち込んだ時期もありました。」
─そして今の場所へ移転?
「2011年です。仕事が増えてきましたからね。前は狭いオンボロの古民家みたいな所でしていましたから。 」
─オリジナル麺の開発?
「一番最初、両端が薄くて真ん中が分厚い麺を作りたいと思いました。イタリアンのパスタからヒントを得た麺なんですが、何度か試作しましたがなかなかイメージに合ったのができなくて失敗ばかりでした。その経験を踏まえて機械屋さんといろいろ話し合って、イメージを絵で描いたら今のウィング麺の形になっていました。」
─独特の形状のウィング麺はすぐに話題になりましたね。
「当初はウィング麺を大々的に売る気はなかったんです。僕の楽しみの中から生まれた麺で、1ヶ月とか食べ続けられるような麺でもないですから。『棣鄂で麺を買っていたら、こんな面白いおもちゃも持てるよ』って+αの意味合いが強いんです(笑)。ウィング麺で名を馳せようとかは考えていませんでしたよ。」
─そしてサンダー麺の開発?
「山形のケンちゃんラーメンの麺との出会いからですね。ある時、札幌のまるは健松丸の長谷川さんが山形でケンちゃんラーメンを食べてきて、ウチに『あんな麺が欲しいんですよ』と相談してきたんです。ネットで調べてみたら『なんじゃこれ?』って驚きましたね。東北の人は凄くね、小麦、麺料理を上手く使っていますよね。毎日食べるような味にして、量もですし自由度がとても高いと感じます。業界的には『東京がトレンドだ』と言われる事が多いですが、実は『東北のを巧く焼き直して出している』というのが多いように思います。それで一時、東北の麺についてのラーメンの特集とかを読み漁っていました。」
─オーダーへの対応。
「極稀にピタって相手側の希望に合わせれることもありますが、そんなに上手くはなかなかいかないですよ。例えば注文を受ける時にお客様から『モチッとして』と言われても、僕のモチっと、お客さんのモチッが違ったりする。僕の思う真空のカスっとした麺を出したら、『これこれ~!』と言ってくれることがあり、『あ~、こっちだったんだ』って(笑)。そういう言葉だけで細かい刷り合わせするが凄く大変ですね。遠いと電話になりますから更に難しくなります。」
─最近は秋田や山形へも?
「琴のさん(山形県)とか麺を作る時間をなかなか作れないようで、『製麺所で買うなら棣鄂さんで』と言ってくれています。東北の麺とか、もちろん向こうに合わせて作っているんですが、山形の地元の人からしたら『食べたことない麺』と言われますね(笑)。概ね気に入って頂いてるようなので良かったです。やっぱり地元のブロガーさんが『美味しい』とか書いてくれていると嬉しいです。PCで地元の方のブログとかチェックして、にんまりしています(笑)。」
─まだまだ修行?
「毎日、ちょこっとでも作ったり見たりとか勉強は続けています。難しいのは今でもやっぱり安定ですね。例えば商売ですからやりたくないことでもすることもあります。お客様から『もうちょっと加水を下げて』と注文受けた時に『いや、これは下げても駄目だけどな』と思っても、注文ですから反論はできないですからね。」
─お客さまとのやり取りから学ぶ。
「こちらから提案をさせてもらったりはしますが、ウチは材料屋ですからね。そういうお客様とのやり取りの中から気づく事も多い。例えばよく言われるのが『塩ラーメンに合う麺をください』というような注文。その時に『それは人それぞれですが』と返事をしてしまうと、やっぱり突き放すような言葉になりますからね。『清湯にはこういう麺』とかそういうセオリーって、僕は自由でいいんじゃないかなと思うんです。『何番の麺ください』とかもあるんですけど、コチラが『何番は無いんですけど、こういうのならあります』と言うと、『じゃあ、いいです』って。ウチとしてはそこで決めないで欲しいなとかありますね。」
─ 自家製麺ブームへは?
「作りたい人は作りたいし、作りたくない人は作らないですから。製麺所のメリット、自家製麺のメリット、それぞれあるので製麺所としての焦りとかは全くないです。」
─製麺の同志?
「誰にでもってのは無いですが、お付き合いのある店主さんには僕の持っている知識を教えたり情報交換とかします。僕が商売感覚が鈍いのかもしれないけど、同志だと思って接しています。同じことをしているので話してて楽しいし、同じことで苦労してると思うし。」
─最近、面白い麺との出会いは?
「自分が作っている麺はよく分かっているので食べてて楽しくないんです。刺激を受けるのは他の人が作っている麺ですね。最近では岡山のだてそばさん!老舗で有名だって聞いたので行ってきたんですが、空気が思いっきり入ってる『エアーin』みたいな麺で『これどうやって作っているんだろう?』と凄く考えました。低加水でセオリーには合っているんだけど、凄いスコスコで『え?』と思いましたね。麺の情報とかは自分でも集めてます。麺の写真見たらだいたい分かりますしね。ネットで日本各地を調べています。」
─場所は京都に拘る?
「まだ未知数ですね。東京、九州、はたまた海外とかいろいろ考えていますが決め兼ねています。」
─今後?
「関西で揉み麺をしっかり広めたい。まだやっぱり縮れ麺と一緒にされていることが多いので、もっと分かりやすい揉み麺をご披露したいと思っています。そしてこれまでいろいろしてきたので、この辺でしっかり足場を固めていきたいですね。究極は『売れてなんぼ』と思っています。
例えば、『あそこの湯で時間はどう思いますか?』と聞かれたら、僕は『あの人がいいと思っているならいいと思います』と答えています。僕は麺をハサミでいっぱい切り刻まれて、スプーンで喰われていても怒らないです。買って頂けるだけでありがたいんです。」
─大切なこと?
「1つ言えることは、中華麺の職人であり続けたいと思っています。」
<会社情報>
麺屋棣鄂
京都府京都市南区上鳥羽山ノ本町24
知見工場長Twitter:https://twitter.com/teigaku_kojocho
(取材・文・写真 KRK 平成27年9月)